認知症新薬の現実、早期治療が2割に届かない日本の医療体制課題
抗Aβ抗体薬が変えた認知症治療
認知症治療は、症状を一時的に和らげる段階から、アルツハイマー病の病態そのものに働きかける段階へ移り始めました。転機になったのが、2023年9月に承認されたレカネマブ、商品名レケンビです。2024年にはドナネマブ、商品名ケサンラも加わり、治療の選択肢は2剤になりました。
ただし、この変化は「認知症を治せる薬ができた」という話ではありません。対象はアルツハイマー病による軽度認知障害、いわゆるMCIと、軽度の認知症に限られます。目的も記憶や判断力を元に戻すことではなく、認知機能と日常生活機能の低下を遅らせることです。
日本では2022年時点で認知症高齢者が約443万人、MCI高齢者が約559万人と推計されています。2040年には両者の合計が約1200万人に達する見込みです。新薬の登場は大きな前進ですが、必要な人へ安全に届けるには、早期発見と検査体制、通院を支える生活設計まで含めた仕組みが欠かせません。
レカネマブとドナネマブの効果差
進行抑制薬としての位置づけ
レカネマブは、脳内のアミロイドβに結合する抗体薬です。エーザイとバイオジェンの発表では、国際共同第3相試験Clarity ADで1795人が登録され、18カ月時点のCDR-SBの悪化をプラセボ比で27%抑制しました。ADCS MCI-ADLでは37%のベネフィットが示されています。
この数字は、本人や家族にとって「数カ月から半年程度、今の生活機能を保てる可能性」を意味します。介護の開始時期、仕事や家事の継続、財産管理や住まいの準備など、生活上の選択に時間をつくる価値があります。一方で、劇的な改善や進行停止を期待すると、効果を過大評価してしまいます。
投与方法も生活への影響が大きい点です。レカネマブは通常、体重1kgあたり10mgを2週間に1回、約1時間かけて点滴します。通院は長期に及び、投与前後の観察や定期的なMRI検査も必要です。治療そのものが、本人だけでなく家族の予定、交通手段、介護保険サービスの組み合わせに影響します。
4週投与がもたらす選択肢
ドナネマブは、アミロイドβプラークを標的とする抗体薬です。厚生労働省の最適使用推進ガイドラインでは、初回350mg、2回目700mg、3回目1050mg、その後は1400mgを4週間隔で点滴する用法が示されています。2週間ごとの通院が難しい人にとって、4週間隔は現実的な差になります。
臨床試験では、早期アルツハイマー病の1736例を対象に評価され、全体集団でiADRSの悪化抑制は22.3%、CDR-SBでは28.9%でした。低から中等度のタウ蓄積集団では、iADRSで35.1%、CDR-SBで36.0%の進行抑制が報告されています。病期やバイオマーカーの状態で、期待できる効果が変わることを示す結果です。
ドナネマブには、アミロイドPETでプラーク除去を確認し、治療完了の可否を判断する考え方もあります。これは「ずっと点滴を続ける薬」ではなく、一定期間で評価しながら進める治療設計につながります。ただし、PET検査の予約、読影、治療施設との連携が必要になり、医療側の調整負担は小さくありません。
MCI段階で治療を考える意味
軽度認知障害は、客観的な認知機能低下がある一方で、日常生活はおおむね自立している状態です。アミロイドPETの適正使用ガイドラインは、アルツハイマー病の病理変化が、認知機能正常の段階からMCI、認知症へ進む流れを示しています。抗Aβ抗体薬がMCIを対象に含むのは、症状が軽いうちほど残っている生活機能が多いからです。
ここで重要なのは、単なる「もの忘れ」や、症状のないプレクリニカルな状態は治療対象と同じではない点です。薬を使うには、臨床診断に加え、アミロイドPETまたは脳脊髄液検査でAβ病理を確認する必要があります。早く受診することは大切ですが、早ければ誰でも投与できるわけではありません。
投与率2割にとどまる選別過程
希望者から治療開始までの関門
東京都健康長寿医療センターの研究グループは、2023年12月から2025年4月までに抗Aβ抗体薬治療を希望して受診した456人を解析しました。うちDMT外来に紹介されたのは209人で、解析対象期間内に同外来を受診したのは205人です。最終的に治療を開始できたのは87人で、希望者の約20%にとどまりました。
この結果は全国の投与率そのものではなく、専門施設の外来データです。それでも、治療を望む人がすぐ投与に進めるわけではない現実をよく示しています。もの忘れ外来で鑑別診断と重症度評価を行い、専門外来で同意説明、MRIによる禁忌確認、アミロイドPETまたは脳脊髄液検査へ進むという二段階のスクリーニングが必要だからです。
治療に至らなかった理由は、一つではありません。第1段階では疾患の重症度が高いこと、第2段階では本人や家族の希望による辞退が多く、続いてアミロイド陰性、MRIでの禁忌所見が挙げられました。新薬の普及を阻む壁は、薬価だけではなく、医学的適格性と意思決定の双方にあります。
病状進行とアミロイド陰性の壁
抗Aβ抗体薬は、アルツハイマー病によるMCIまたは軽度認知症の進行抑制が対象です。中等度以降まで進んだ認知症では、残された神経機能が少なく、治療の利益が副作用や通院負担に見合いにくくなります。本人や家族が「認知症かもしれない」と感じてから専門医療につながるまで時間がかかるほど、対象から外れる可能性は高まります。
一方で、非常に軽い症状の人も別の壁に直面します。東京都健康長寿医療センターの報告では、MMSE 27から30点の層では、アミロイド陰性の割合や、症状が軽微で治療を見送る割合が増えました。つまり「早すぎる受診」が問題なのではなく、早期症状の背景が本当にアルツハイマー病かどうかを見極める必要があるということです。
アミロイドPETは、その見極めを支える検査です。日本核医学会の資料では、2025年4月時点で国内331施設、380機種が撮像施設認証を取得しています。数としては広がりつつありますが、地域によってアクセス差は残ります。検査を受けるだけでも予約、移動、費用、結果説明の時間が必要です。
本人と家族の辞退が示す現実
専門外来での辞退は、情報不足だけで説明できません。副作用への不安、2週間または4週間ごとの通院、点滴中の待機、MRI検査、家族の付き添い、仕事や介護との両立など、治療は生活全体に入り込むからです。高額療養費制度があっても、交通費や付き添いの時間、検査日の調整は家計とは別の負担になります。
特に75歳以上では、副作用への懸念から治療を選ばない割合やアミロイド陰性の割合が高まりました。男性ではMRIで多発微小出血などの禁忌に該当する傾向も示されています。年齢や性別だけで線引きするべきではありませんが、脳血管病変、抗凝固薬、転倒リスクなどを含めた総合判断が求められます。
治療を辞退することは、必ずしも消極的な選択ではありません。期待できる効果、副作用、通院負担、本人が何を守りたいかを比べたうえでの決定なら、それも医療の重要な成果です。新薬時代の認知症診療では、投与数を増やすことだけでなく、納得して選ぶための説明が質を左右します。
副作用管理と費用負担が残す地域差
ARIAを前提にした安全管理
抗Aβ抗体薬で避けて通れないのが、アミロイド関連画像異常、ARIAです。脳のむくみを示すARIA-Eや、微小出血などを示すARIA-Hがあり、多くは無症状でも、まれに重い症状へ進む可能性があります。レカネマブの添付文書では、重大な副作用としてInfusion reactionやARIAが示されています。
一方、実臨床データは過度な恐怖だけでは判断できないことも示しています。東京都健康長寿医療センター研究所が発表した全国2672人の全例調査中間報告では、脳のむくみや微小出血の発生率は7.1%で、大部分は無症状でした。点滴に伴う発熱などの反応は17.0%、治療開始から28週時点の継続率は約93%でした。
この数字は、安全に実施できる可能性を示す一方で、医療機関側の条件が厳しいことの裏返しです。最適使用推進ガイドラインは、ARIAリスクを理解する医師、MRI読影、PETまたはCSF検査、チーム体制、副作用対応を求めています。地域の診療所だけで完結する治療ではなく、初回導入施設と連携施設の分担が前提になります。
薬価より大きい継続負担
薬価も無視できません。厚生労働省の薬価算定資料では、レカネマブは200mg瓶が4万5777円、500mg瓶が11万4443円で収載されました。ドナネマブは350mg瓶が6万6948円です。公的医療保険と高額療養費制度があるため、自己負担は所得や年齢で抑えられますが、医療財政への影響は継続的に検証されます。
ただ、本人や家族にとっては、薬剤費だけで治療負担は決まりません。検査日の確保、付き添い、点滴後の観察、体調変化の連絡、半年以降の連携施設への移行など、治療を続けるための段取りが必要です。認知症が疑われる段階では、本人が一人で説明を理解し、予定を管理することが難しい場合もあります。
今後の焦点は、治療薬の改良だけではありません。アミロイドPETや脳脊髄液検査につながる前の初期相談、かかりつけ医から専門外来への紹介、連携施設での点滴継続、患者向け説明資料の標準化が重要になります。副作用管理と生活支援を同じ診療経路に組み込める地域ほど、治療の恩恵を受けやすくなります。
受診前に家族が確認すべき判断軸
抗Aβ抗体薬の登場で、認知症治療は明らかに前へ進みました。しかし、治療の入口は「薬を希望する」だけでは開きません。症状がMCIまたは軽度認知症の範囲か、アルツハイマー病の病理が確認できるか、MRIで禁忌がないか、通院と検査を続けられるかを一つずつ確認する必要があります。
家族が最初にできることは、もの忘れの内容を具体的に記録することです。同じ質問の頻度、支払いのミス、服薬管理、道に迷った経験、料理や買い物の変化などを、時期と一緒に整理すると診断に役立ちます。受診時には、本人の希望を尊重しながら、治療で守りたい生活目標を言葉にしておくことも大切です。
新薬は、認知症との向き合い方を「諦める医療」から「時間をつくる医療」へ変えました。その時間を価値に変えるには、薬だけでなく、栄養、運動、睡眠、血圧や糖尿病管理、社会参加、介護サービスの準備を並行して進める必要があります。投与するかどうかの判断も、その人らしい生活を続けるための選択肢の一つとして位置づけるべきです。
参考資料:
- 厚生労働省 アルツハイマー病の新しい治療薬について
- エーザイ レケンビの日本承認に関するニュースリリース
- 国立長寿医療研究センター アルツハイマー病の新しい治療薬 レカネマブについて
- PMDA レケンビ電子化された添付文書
- 厚生労働省 最適使用推進ガイドライン レカネマブ
- 厚生労働省 最適使用推進ガイドライン ドナネマブ
- 厚生労働省 レケンビの薬価算定について
- 厚生労働省 ケサンラの薬価算定について
- 東京都健康長寿医療センター研究所 レカネマブ全例調査中間報告
- 東京都健康長寿医療センター研究所 抗Aβ抗体薬の治療導入に関する研究概要
- 東京都健康長寿医療センター レカネマブとドナネマブを用いた治療の流れ
- 経済産業省 認知症政策
- 日本核医学会 アミロイドPETイメージング剤の適正使用ガイドライン
- JAMA Donanemab in Early Symptomatic Alzheimer Disease
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