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戦時中にコンクリートで船を造った社長の決断と信念

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はじめに

太平洋戦争末期、日本は深刻な資材不足に直面していました。鉄鋼は軍艦や兵器の製造に優先的に回され、民間の造船に使える金属はほぼ枯渇した状態でした。そんな極限状況の中、大阪の土木会社社長がコンクリートで船を造るという前代未聞の挑戦に乗り出します。

この人物こそ、浪速工務所の社長・武智正次郎です。軍との合弁事業を持ちかけられた——というよりも自ら進んで建白書を提出したその決断の裏には、従業員の雇用を守りたいという経営者としての強い信念がありました。戦後80年を超えた現在、彼が造った「武智丸」は広島県呉市で防波堤として静かにその姿を残しています。

コンクリート船が生まれた時代背景

鉄が消えた日本

1941年(昭和16年)、アメリカをはじめとする各国からの鉄や銅の輸入が全面的にストップしました。開戦後は戦況の悪化とともに物資不足がさらに深刻化し、兵器製造に必要な金属類は枯渇状態に陥ります。

輸送船の損失も甚大でした。連合国の潜水艦や航空機による攻撃で、日本の商船隊は壊滅的な打撃を受けていたのです。新しい船を造りたくても鋼材がない。しかし輸送力を確保しなければ、国内の物資輸送すら滞ってしまう。この矛盾した状況が、「コンクリートで船を造る」という発想を生み出しました。

海軍の研究班が始動

1942年(昭和17年)、舞鶴海軍工廠の造船設計主任であった林邦雄技術中佐を中心に、コンクリート船の研究班が発足します。林中佐は「戦闘任務のない貨物船を鉄筋コンクリートで建造すれば、貴重な鋼材を節約できる」と考えました。

コンクリート船に使用する鉄は、配筋用の小形棒鋼が大半です。鋼船の船体に必要な厚鋼板は高度な製造技術と専用設備を要しますが、棒鋼であればそうした制約は少なく、鋼船の建造リソースを圧迫しない点でも有利でした。

当初、この構想は「泥舟」「狸の泥船」と揶揄され、懐疑的な声が多かったといいます。しかし、試作として鉄筋コンクリート製の浮き桟橋を建造したところ十分な強度が確認され、本格的な貨物船の建造が承認されました。

武智正次郎の決断

従業員を守るための建白

武智正次郎は京都大学土木科を卒業した技術者であり、大正12年に起業して以来、大阪で土木工事会社「浪速工務所」を経営していました。独自に開発した「武智式基礎工法」でコンクリート基礎杭に複数の節を設ける技術は、国内外で特許を取得するほどの実績を持っていた人物です。

しかし、戦争の影響で民間の建設工事は激減していきます。鋼材不足に加え、従業員が次々と軍に召集される状況に、武智は強い危機感を覚えました。このまま手をこまねいていれば、会社は立ち行かなくなり、残った従業員の生活も守れなくなる——。

そこで武智は、東條内閣にコンクリート船の建造を建白します。コンクリートの専門家として、自社の技術を船の建造に活かせると確信していたのです。この提案が認められ、海軍との協力体制が実現しました。

廃塩田に造船所を開設

建造の舞台となったのは、兵庫県曽根町(現在の高砂市)にある廃塩田の跡地です。ここに素掘りの2基のドックを建設し、「武智造船所」が開設されました。経営者の名前をそのまま冠した造船所には、総勢約600名もの作業員が集まり、コンクリート工事に従事しました。

建造方法は独特でした。まず足場を井桁に組み、ジャングルジムのように配した鉄筋に型枠を張ります。そこにコンクリートを流し込み、長い竹竿で一斉に突き固めていくのです。一層の高さは約1.5メートル、厚みは約250ミリメートル。骨材には揖保川下流から採取した20ミリメートルのふるいを通過した砂利が使用されました。

武智丸の建造と運命

3隻が完成、4隻目は未完

武智造船所で建造された船は「武智丸」と名付けられました。主要スペックは全長64.5メートル、幅10メートル、深さ6メートル、総トン数800トンです。750馬力のディーゼルエンジン(三井玉製)を搭載し、航海速力は約9.5ノットでした。

第一武智丸は1944年(昭和19年)に竣工し、呉鎮守府に配備されます。続いて第二武智丸が横須賀、第三武智丸が佐世保にそれぞれ配備されました。瀬戸内海を中心とした国内航路で、石炭や鉄鋼原料などの輸送任務に就いています。

注目すべきは、1945年5月24日に第二武智丸が機雷に触雷した際の記録です。コンクリート船は脆いと思われがちですが、このとき受けた損傷は軽微な小破にとどまり、鋼船に劣らない耐久性を実証しました。

1945年3月には三井造船が経営に参画し、「三井造船曽根造船所」に改称されます。海軍はコンクリート船の大量建造方針を打ち出しましたが、第四武智丸の建造中に終戦を迎え、計画は中止となりました。

防波堤として第二の人生

終戦後、役目を終えた武智丸には新たな使命が与えられます。広島県呉市安浦町の三津口湾には当時、十分な防波堤がありませんでした。1950年(昭和25年)、第一武智丸と第二武智丸の船体底部に穴を開け、満潮時に沈設して防波堤として活用することが決まったのです。

以来70年以上、2隻の武智丸は安浦漁港の防波堤としてその役割を果たし続けています。コンクリート船の原形を留めている全国的にも貴重な存在であり、戦争遺産として地域の歴史を伝える「語り部」となっています。

戦後80年と記憶の継承

漫画で描かれる戦時下の企業人

この武智丸の物語は近年、新たな形で注目を集めています。東広島市出身の漫画家・村上たかし氏が、ビッグコミックオリジナル誌で「コンクリートの船」の連載を開始しました。『星守る犬』で知られる村上氏が、史実を基に戦時下の企業人の姿を描く意欲作です。

作品では、従業員のために仕事を求めて奮闘する社長の姿を軸に、迫りくる戦争の足音の中で軍の仕事を請け負うことの葛藤が描かれています。単なる戦争の悲惨さだけでなく、「国民の戦争責任」にもまなざしを向ける深い作品として評価されています。

問われる企業と戦争の関係

戦後80年を経て、戦争を直接体験した世代は急速に減少しています。武智正次郎の決断は、愛国心からだけでなく、従業員の雇用を守るという現実的な経営判断でもありました。戦時下における民間企業の立場——軍への協力と従業員の保護という二つの要請の間で揺れ動く経営者の姿は、現代のビジネスパーソンにも深い示唆を与えます。

国家の要請と企業の自主性、従業員の生活と時代の流れ。これらの相克は、形を変えて現代社会にも存在する普遍的なテーマです。

まとめ

武智正次郎が建造したコンクリート船「武智丸」は、戦時下の極限状況における民間企業の知恵と決断を象徴する存在です。鉄のない時代にコンクリートで船を造るという常識外れの挑戦は、従業員を守りたいという社長の信念から生まれました。

現在も呉市安浦町で防波堤として残る武智丸は、戦争の記憶を静かに伝えています。戦後80年を超え、体験者の声が失われつつある今だからこそ、こうした戦争遺産の価値を再認識し、次の世代へと語り継いでいくことが求められています。歴史の教訓を風化させないために、まずは知ることから始めてみてはいかがでしょうか。

参考資料:

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