老舗藤井酒造が豪雨被災後に全量生酛へ賭けた蔵付き酵母復興戦略
豪雨被災後も棚から消えなかった龍勢
広島県竹原市の藤井酒造は、1863年創業の酒蔵です。代表銘柄の「龍勢」は、1907年の第一回全国清酒品評会で首席第一等を受けた歴史を持ちます。一方で、近年の同社を語るうえで避けられないのが、2018年と2021年の豪雨被災です。RCC中国放送は、2018年に5500本、2021年に1万本が被害に遭ったと報じています。合計すれば、少なくとも1万5500本規模の在庫喪失です。
しかし、藤井酒造は「被災した老舗」という物語だけで残ったわけではありません。支援を受け、支援する側にも回り、さらに酒造りの前提を全量生酛と蔵付き酵母へ寄せました。これは情緒的な復興談ではなく、災害リスク、市場縮小、ブランド再設計が重なる小規模メーカーの経営ケースとして読むべき事例です。
二度の浸水が突きつけた在庫依存の弱点
2018年と2021年に失ったもの
2018年7月の西日本豪雨では、竹原市でも土砂災害や浸水被害が広がりました。RCCの報道によると、竹原市で発生した土石流は400を超え、住宅約600棟が浸水などの被害を受けました。藤井酒造の酒蔵も床上約80センチまで浸水し、5500本、7000リットルの酒が被害を受けたとされています。
さらに2021年7月、藤井酒造は再び浸水しました。SAKETIMESの取材では、蔵全体が床上浸水し、高い場所で水位は約90センチに達しました。コロナ禍で在庫が例年より多かったことも重なり、約1万本の商品を廃棄せざるを得なかったとされています。ポンプ5基、充填機、特注フォークリフトも被害を受け、瓶詰めがすぐにできない状態に陥りました。
この被害で重要なのは、失われたのが単なる在庫ではなかった点です。酒蔵にとって瓶詰め済みの商品は、販売先との約束であり、飲食店や酒販店の棚を維持するための供給力です。SaaS企業でいえば、サービス停止と顧客接点の断絶が同時に起きるようなものです。復旧が長引けば、ブランドの想起そのものが弱ります。
外部倉庫と支援網の意味
2021年の被災時、2018年の教訓が一部機能しました。SAKETIMESによれば、藤井酒造は在庫をすべて蔵内に置かず、外部の低温倉庫へ移すようにしていました。そのため、すべての酒が失われたわけではありません。これは派手なDXではありませんが、サプライチェーン分散という事業継続の基本です。
加えて、復旧を支えたのは取引先、同業者、近隣住民、消費者のネットワークでした。ここで見落としてはいけないのは、酒蔵のブランド価値が商品単体ではなく、地域、酒販店、飲食店、ファンの関係性に宿っていたことです。支援物資や人手が集まった背景には、日頃から築いていた関係資本があります。
この関係資本は、後に漫画家・藤沢とおる氏との「GTO x RYUSEI THANK!」へつながります。SAKETIMESは、同商品が2020本限定で予約販売され、1本あたり650円を竹原市の災害復旧と地域活性のために寄付する企画だったと伝えています。被災支援を受けるだけでなく、九州豪雨支援酒も企画した点は、藤井酒造の復興が「助けられた物語」から「助けるブランド」へ転換したことを示します。
復興酒が広告ではなく接点になった構造
GTOコラボは、単なる有名IPの借用ではありません。商品設計、寄付、地域支援、限定販売が一体化したコミュニケーションでした。藤沢氏の作品に親しんだ層へ「龍勢」を届ける入口となり、既存の日本酒ファン以外にも接点を広げました。
小規模メーカーにとって、広告費を大きく投じることは難しいです。だからこそ、意味のあるコラボレーションは強い導線になります。ただし、これは再現性の低い偶然だけではありません。被災状況を発信し、支援者とつながり、商品に落とし込み、売上の一部を地域へ戻す運用力があって初めて成立します。
藤井酒造が棚から消えなかった理由は、酒質の評価だけでは説明できません。災害後も出荷再開を急ぎ、外部倉庫を使い、支援の輪を商品化し、地域とファンを同じ文脈に置いたことが大きいです。ここに、老舗でありながらスタートアップ的な実行力を見せた経営判断があります。
全量生酛へ振り切ったブランド再設計
歴史への回帰ではなく選択と集中
藤井酒造の沿革を見ると、1999年に本醸造を廃止して全量純米蔵に転換し、2008年に生酛造りを再開しています。さらに2023年には全量生酛仕込み蔵へ転換しました。2024年には藤井義大氏が代表取締役社長に就いています。
生酛は、酒母の中で乳酸菌を育て、その乳酸で雑菌の繁殖を抑えながら酵母を増やす伝統的な方法です。現代の大量生産や安定供給の観点では、醸造用乳酸を使う速醸系の方が管理しやすい面があります。にもかかわらず、藤井酒造は全量生酛へ舵を切りました。
この判断は、懐古趣味というよりも、プロダクトの差別化です。日本酒造組合中央会は、日本酒造りを「並行複発酵」という高度な製法と説明しています。工程が複雑であるほど、標準化による安定と、蔵ごとの個性のせめぎ合いが起きます。小さな蔵が大手と同じ土俵で価格や安定供給を競えば、規模の差は不利に働きます。そこで藤井酒造は、手間のかかる製法そのものをブランドの核へ据えました。
「この蔵でしか造れない酒」への寄せ方
公式サイトの商品説明では、藤井酒造の一部商品について「酒母は生酛」「酵母は蔵付き酵母」と記載され、培養酵母や醸造用乳酸を使わず、蔵に棲みつく微生物で発酵を成立させる方針が示されています。これは品質管理の難度を上げる一方、模倣しにくい価値を生みます。
SaaSで例えるなら、単機能の価格競争から、データ資産とユーザー体験を組み込んだ垂直特化型プロダクトへ移る動きに近いです。日本酒の場合、そのデータはコードではなく、蔵の環境、麹、米、水、温度経過、過去の仕込みの蓄積です。藤井酒造は、そこを「蔵の記憶」として商品設計に組み込もうとしています。
この方向性は、2024年12月に「伝統的酒造り」がユネスコ無形文化遺産に登録された流れとも響き合います。国税庁は、伝統的酒造りを各地の気候風土に応じて発展してきた技術と説明しています。つまり、地域性や手仕事は、国内向けの情緒だけでなく、海外へ説明できる文化的価値にもなっています。
商品体系を支える実験ライン
藤井酒造の銘柄ページでは、「龍勢」が複数シリーズで構成されていることが示されています。Limited Series、別格品、神籬、Classics、Lab. Works.という分け方は、単なる価格帯の違いではありません。日常に寄り添う酒、定番として基盤を支える酒、問いを試みる酒という役割の違いです。
特にLab. Works.は、蔵の中で生まれた問いを小さな仕込みで試すシリーズです。ここに、同社のプロダクト開発の考え方が表れます。定番商品でいきなり全リスクを負うのではなく、実験ラインで仮説検証し、学びを蓄積する。新興SaaS企業がβ版や限定機能で顧客反応を確かめる動きに近い構造です。
2025年のLab. Works.では、夏酒の季節性や新しい酒米、麹菌の違いがテーマになりました。2026年には「酸」を掲げ、蔵付き酵母がリンゴ酸を多く生成する特性を掘り下げています。伝統を守ると同時に、毎年の実験を商品として外部に見せる。この透明性が、ファンの参加感とブランド理解を高めています。
蔵付き酵母を資産化する実験経営
89株からP19とP29へ絞った選抜
藤井酒造の蔵付き酵母プロジェクトは、旧蔵の柱や木桶などから有効な株を採れなかったところから始まりました。公式noteによると、その後、酵母無添加の生酛酒母から採取する方法に切り替え、89株を得ています。最初に仕込んだ酒母からの株は、98.8%が野生酵母とみられる結果だったと説明されています。
その後、102株のアルコール生成能を確認し、32株が対照株と同程度またはそれ以上の生成量を示しました。さらに特徴の異なる24株まで絞り、胞子形成能を持つ9株を確認。400グラム規模の小仕込みや官能評価を経て、P19とP29の2株が選抜されました。
このプロセスは、職人の勘だけでなく、研究機関との連携による検証を含んでいます。広島県立総合技術研究所食品工業技術センターの協力を受けながら、微生物の候補を段階的に絞り込む。ここには、伝統産業におけるR&Dの現代的な姿があります。
数値と官能評価の両輪
2022BYの試験醸造レポートでは、P19とP29の違いも見えています。4本全体でアルコール発酵能力は予想以上に高く、19%前後まで生成できたとされます。特にP29は強い発酵力を示し、ある仕込みではアルコール19.8%に達しながらアミノ酸度が低かったと説明されています。
一方で、P19は発酵力でP29に劣る面がありながら、甘味、酸味、ふくらみのバランスで好印象を与えました。これは、酒造りにおける価値が単一KPIで決まらないことを示します。発酵力が強いことは重要ですが、商品として飲まれる酒には、香り、酸、余韻、食中酒としての振る舞いが必要です。
この点は、プロダクト開発にも通じます。性能指標だけが高い機能が、必ずしも顧客に選ばれるとは限りません。藤井酒造は、分析値と官能評価を往復しながら、蔵付き酵母を「使える微生物」から「ブランドの個性」へ転換しようとしています。
2026年の「酸」が示すデータ蓄積
2026年のLab. Works.では、蔵付き酵母のリンゴ酸生成に焦点が当てられました。公式noteでは、酸度3.0と3.2の2本が紹介され、一般的な日本酒の倍近い数値になったと説明されています。それでも、リンゴ酸主体で酢酸が少ないため、鋭く重い印象ではなく、果実のような酸として表現できるとしています。
ここで重要なのは、藤井酒造が「うちの蔵だけのデータ」を蓄積していることです。協会酵母なら全国の知見がありますが、蔵付き酵母は自社で使いこなすしかありません。失敗も含め、仕込みごとの温度、米の溶け方、酸の出方、香りの立ち方を蓄積していく必要があります。
この蓄積は、短期的には非効率です。けれども、中長期では模倣困難な資産になります。酒造りの世界では、設備投資だけで差がつくわけではありません。蔵の微生物を読み解き、商品に翻訳する知識こそが、他社が買えないデータベースになります。
輸出拡大と気候リスクが迫る経営課題
伸びる海外市場と説明可能な個性
日本産酒類の国内市場は、少子高齢化や人口減少などを背景に縮小傾向にあります。一方で、日本酒の輸出は伸びています。日本酒造組合中央会は、2025年度の日本酒輸出総額を約459億円、数量を約3.35万キロリットルと発表しました。輸出先国数も過去最多の81カ国に広がっています。
さらに、1リットルあたりの輸出単価は2015年の771円から2025年には1368円へ上昇しました。高価格帯の日本酒が世界市場を牽引する傾向が続いています。この環境では、藤井酒造のように「なぜこの味なのか」を説明できる蔵は有利です。全量生酛、蔵付き酵母、竹原の地下水、地域の歴史は、海外の飲食店や専門家に伝えるストーリーになります。
ただし、輸出は万能ではありません。中国、アメリカ、香港の上位市場に依存すれば、景気、規制、為替、関税の影響を受けます。小規模蔵にとっては、海外販路を広げるほど在庫、温度管理、表示、物流、現地教育の負担も増えます。固有性を高単価に変えるには、ブランド説明とオペレーションの両方が必要です。
気候リスクを前提にした蔵の設計
豪雨被災を経験した藤井酒造にとって、気候リスクは抽象論ではありません。環境省は、過去に例のない気象災害の発生などを受け、企業の事業継続マネジメントで気象災害を考慮する必要性が高まっていると指摘しています。
酒蔵の場合、被害は建物や在庫にとどまりません。水没した瓶詰め設備が止まれば出荷が遅れます。フォークリフトやポンプが失われれば、復旧作業の速度が落ちます。微生物環境を重視する蔵ほど、清掃、乾燥、衛生管理、温度管理の回復にも注意が必要です。
今後の課題は、外部倉庫の活用だけではありません。重要設備の高さ、代替充填先、ラベル資材の分散、ECと特約店の在庫情報連携、被災時の発信手順まで含めた設計が必要です。小さな蔵ほど、余剰人員や設備が少ないため、災害前の準備が復旧速度を左右します。
美談に頼らない収益構造
災害復興の物語は一時的な注目を集めます。しかし、企業として生き残るには、支援購入の後も選ばれる理由が必要です。藤井酒造の場合、その理由を全量生酛と蔵付き酵母に寄せた点が大きいです。
一方で、手間のかかる造りはコストも上がります。蔵付き酵母は安定運用まで時間がかかり、商品ごとのブレも説明責任になります。Lab. Works.のような実験商品は魅力的ですが、定番商品の収益を支える設計がなければ、研究開発の余力は続きません。
つまり、藤井酒造の次の勝負は「珍しい酒」ではなく「継続的に買われる固有性」です。特約店、飲食店、オンラインストア、蔵への来訪体験をどう組み合わせるか。伝統産業であっても、顧客接点の設計はデジタルサービスと同じくらい重要になっています。
小規模酒蔵が学ぶべき三つの論点
藤井酒造の事例から見える論点は三つです。第一に、災害対策は保険や片付けではなく、販路と在庫を守る経営設計です。外部倉庫や出荷再開の段取りは、ブランドを市場から消さないための仕組みです。
第二に、差別化は物語だけでなく技術に根差す必要があります。全量生酛や蔵付き酵母は、語りやすいだけでなく、実際の味わいと商品体系に反映されています。第三に、実験を公開し、顧客と学習過程を共有することです。Lab. Works.は、完成品を売るだけでなく、蔵が何を考えているかを伝えるメディアにもなっています。
日本酒市場は縮小と成長が同時に進む難しい局面にあります。国内では飲酒人口が細り、海外では高単価市場が広がります。その中で小規模酒蔵が取るべき道は、安さや量ではありません。自社にしかない技術、地域、微生物、関係性を、継続購入される商品と体験に変えることです。藤井酒造の復興は、その現実的な手がかりになっています。
参考資料:
- 会社概要 – 藤井酒造
- 藤井酒造について|龍勢 公式オンラインストア
- 銘柄一覧 – 藤井酒造
- 龍勢 番外品 Ryusei Extra Blend – 藤井酒造
- 浸水被害を受けた「龍勢」醸造元・藤井酒造(広島県)を飲んで応援しよう | SAKETIMES
- GTOオリジナルラベル!「GTO x RYUSEI THANK!」の予約販売が4/1(水)から開始 | SAKETIMES
- 広島・藤井酒造が「GTO X 龍勢 九州豪雨支援 特別純米酒」を発売 | SAKETIMES
- 「災害きっかけの縁 できることをしていきたい」竹原で浸水被害の酒蔵 | RCC NEWS
- 続・蔵付き酵母について|「龍勢」醸造元|藤井酒造
- 2022BY 龍勢Lab.試験醸造酒 蔵付き酵母 実験レポート|「龍勢」醸造元|藤井酒造
- 龍勢 Lab. Works. 2026 「酸」|「龍勢」醸造元|藤井酒造
- 日本酒の製造工程 - 日本酒 | 日本酒造組合中央会
- 2025年度日本酒輸出実績は金額・数量共に前年度越え | 日本酒造組合中央会
- ユネスコ無形文化遺産登録「伝統的酒造り」 | 国税庁
- 日本産酒類の海外需要を開拓する国税庁の取組 | 財務省
- 民間企業の気候変動適応ガイド | 環境省
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