朝ドラ風薫るで注目の大関和と鈴木雅が拓いた女性専門職への道筋
朝ドラで再発見された看護職の原点
NHK連続テレビ小説「風、薫る」は、明治期に近代看護を学んだ大関和と鈴木雅をモチーフに、二人の女性が看護の道で出会い、職業人として成長していく物語です。ドラマはフィクションですが、背景にある史実は、単なる偉人伝ではありません。医療の近代化、女性教育、職業差別、ひとり親の自立という複数のテーマが交差しています。
二人に共通するのは、現在の言葉でいえばシングルマザーとして子を育てながら、当時まだ社会的評価の低かった看護の世界へ入ったことです。大関和は離婚後、鈴木雅は夫との死別後に、新しい学びと職業を選びました。そこには、家庭の事情に押し流されるだけではなく、自分の力で社会に関わり直そうとする意思がありました。
「人間力の大関和」「知性と勤勉の鈴木雅」という対比は分かりやすい一方で、二人の本質は性格の違いだけでは語れません。彼女たちは、看護を「手伝い」や「雑役」ではなく、知識と訓練に基づく専門職へ変えていく過程に身を置きました。その歩みを追うことは、現代のリスキリングや専門職教育を考えるうえでも意味があります。
シングルマザーが選んだ学び直し
離婚後に看護へ向かった大関和
大関和は1858年、下野国黒羽、現在の栃木県大田原市に生まれました。黒羽藩の重臣の家に生まれ、若くして結婚し、一男一女をもうけましたが、その後に離婚して上京したと伝えられています。明治初期の女性にとって、婚家を離れて子どもを育てながら自立を模索することは、経済面でも世間体の面でも重い負担を伴いました。
転機になったのが、牧師の植村正久との出会いです。植村の勧めもあり、和は桜井女学校附属看護婦養成所で学ぶ道へ進みます。女子学院の資料によれば、桜井女学校の看護婦養成所は1886年に設けられました。当時の日本には、体系的な医療教育を受けた看護婦がまだ少なく、看護の仕事は低く見られがちでした。
和がその道に入ったことは、出身階層から見ても簡単な選択ではありません。旧武家の価値観からすれば、病人の世話を職業にすることへの抵抗は強かったはずです。それでも和は、実習と教育を通じて近代看護を身につけ、1888年には日本で最も早い時期のトレインドナースの一人となりました。
環境再生保全機構の連載では、和が帝国大学医科大学附属第一医院で「看病の要旨」「薬餌用法」「包帯術」「消毒法」などを学んだことが紹介されています。ここで重要なのは、看護が経験や善意だけではなく、観察、衛生、手技、患者理解を含む学問として扱われ始めた点です。和はその変化を、自分自身の職業人生に引き受けました。
死別を契機に進路を変えた鈴木雅
鈴木雅は1857年生まれで、旧姓は加藤です。コトバンクに掲載されたブリタニカ国際大百科事典の記述では、共立女学校を修了し、夫と死別した後、桜井女学校の看護婦養成所に第一期生として入った人物とされています。英語に通じていた雅は、外国人教師アグネス・ヴェッチの講義や実習指導を支える通訳の役割も担いました。
雅の強みは、語学力だけではありません。新しい知識を理解し、それを周囲に伝える力を持っていたことです。看護教育が始まったばかりの時期、外国語で持ち込まれる知識を日本の医療現場へ移すには、単なる逐語訳以上の力が必要でした。患者の状態、医師の指示、病棟の運営を理解し、実務に落とし込む翻訳力が求められたのです。
夫を失い、子どもを抱えた女性が、職業訓練を受けて医療現場に入る。これは、現代なら「学び直し」「セカンドキャリア」と呼ばれる選択に近いものです。もちろん、明治の社会には今のような支援制度も、柔軟な働き方の選択肢もありません。だからこそ雅の選択は、個人の努力だけでなく、女子教育と職業教育が結びつく意義を示しています。
二人は同じ養成所で学びましたが、同じタイプの人物ではありません。和は患者と社会に正面から向き合い、制度や職能団体の整備にも力を注ぎました。雅は知識を吸収し、実務に変え、組織を作る方向に力を発揮しました。違う資質を持つ二人が同じ時代に現れたことが、近代看護の厚みを生んだといえます。
派出看護婦会が開いた働く場
桜井女学校から帝大病院への道
日本看護歴史学会の年表では、1886年に桜井女学校で看護師学校が開設され、1888年には桜井女学校の看護婦生徒とアグネス・ヴェッチの記録が示されています。女子学院の特設サイトも、ヴェッチが帝国大学医科大学第一医院と桜井女学校附属看護婦養成所で実習指導を担い、日本の看護近代化に貢献したと説明しています。
大関和と鈴木雅は、養成所で学んだ後、帝国大学医科大学附属第一医院、現在の東京大学医学部附属病院に関わりました。和は外科の看病婦取締、雅は内科の看護婦取締として働いたとされます。病棟で看護婦をまとめる立場に就いたことは、彼女たちが単なる補助者ではなく、現場運営を担う人材として評価されていたことを示します。
ただし、当時の看護婦を取り巻く視線は厳しいものでした。ERCAの連載では、明治期の看護婦が「卑しい職業」と見なされていた時代背景が語られています。医療の現場では西洋医学が制度化されつつあった一方で、看護の仕事は家族の世話や下働きと混同され、専門職としての評価は十分ではありませんでした。
この構造を変えるには、個人の熱意だけでは足りません。教育課程、実習の場、就職先、職能の倫理、社会への説明が必要です。大関和と鈴木雅の足跡が重要なのは、二人が患者に尽くしたからだけではなく、看護婦という仕事が継続的に育つ仕組みに関わったからです。キャリアは、個人の努力と制度の受け皿がそろって初めて広がります。
在宅看護へ広がった職能の射程
鈴木雅の代表的な功績は、1891年に慈善看護婦会、のちの東京看護婦会につながる派出看護の仕組みを作ったことです。日本看護歴史学会は、帝国大学医院の婦長を辞した雅が外国の例にならって派出看護婦会を設立し、在宅の病人の看護を始めたと記しています。貧しい病人には無料で看護サービスを行ったことも紹介されています。
派出看護婦会は、現代の訪問看護ステーションと同じものではありません。しかし、病院の中だけでなく、患者の家庭に専門的な看護を届けるという発想は、現在の在宅医療や地域包括ケアに通じます。明治の段階で、看護の価値を病室の外へ広げた点に、雅の先見性があります。
コトバンクの鈴木雅の項目では、雅が慈善看護婦会を創設して派出看護事業を始め、1896年に東京看護婦講習所を設立して看護教育にもあたったとされています。さらに1900年頃、東京看護婦会と講習所を大関和に譲ったと説明されています。ここから見えるのは、雅が事業を作り、和がその流れを受け継いで職能の質を高めていく連続性です。
和はその後、大日本看護婦人矯風会の設立にも関わりました。日本看護歴史学会は、派出看護婦会の増加に伴って看護婦の急増と質の低下が起こり、それを憂えた大関和らが内務省に規則制定を働きかけ、看護婦人矯風会を設立したと記録しています。需要が増えるほど、資格や教育の質が問われる。この問題は、現代の人材不足分野にも共通します。
日本赤十字社の看護師養成史を見ると、1889年に看護婦養成規則を制定し、1890年から養成を開始、1891年の濃尾大地震では第一回生10人全員が救護班に加わったとあります。公的な救護看護と、民間の派出看護。この二つの流れが並行して広がったことで、看護は戦時・災害・病院・家庭を横断する職能へ成長していきました。
現代の看護人材に残る制度課題
現代の日本では、看護師は国家資格を持つ専門職として社会に欠かせない存在です。厚生労働省の2026年4月資料では、看護職員就業者数は増加を続け、2023年に174.6万人となったと示されています。このうち看護師は137.3万人です。明治期に数えるほどしかいなかったトレインドナースから見れば、制度化は大きく進みました。
一方で、職業としての課題が消えたわけではありません。同じ厚労省資料では、訪問看護ステーションで働く看護職員が2002年の2.4万人から2023年の8.7万人へ増えたことが示されています。在宅医療の需要が高まるほど、看護師には病院内の処置だけでなく、生活環境を見立て、家族を支え、地域資源をつなぐ力が求められます。
ERCAの連載では、現代の看護も実践科学として発展している一方、仕事の大変さに比べた報酬や、医師の指示との関係など、明治・大正以来の構造的課題が残ると指摘されています。大関和が目指した「自主的に仕事をする看護師」という課題は、現在も完全には終わっていません。
また、看護職の育成は若年人口の減少とも向き合います。厚労省の2040年に向けた資料では、18歳人口の減少や就業看護職員の高年齢化も論点に入っています。人材確保を人数だけで考えるのではなく、学び続けられる環境、離職後に戻れる仕組み、子育てや介護と両立できる働き方を整える必要があります。
大関和と鈴木雅の時代に比べれば、女性が学び、働く選択肢は広がりました。それでも、家庭責任を負う人が専門職としてキャリアを継続する難しさは残っています。二人の物語は、過去の美談ではなく、専門職を支える制度をどう更新するかという現在進行形の問いです。
読者が見直したい学びと自立の条件
大関和と鈴木雅の共通点は、逆境の中で看護を選んだことだけではありません。二人は、新しい知識を学び、現場で試し、後進を育て、制度に働きかけました。つまり、個人の自立を社会の仕組みに変えるところまで歩みを進めたのです。
キャリア形成の視点で見ると、二人の足跡から得られる示唆は明確です。第一に、学び直しは年齢や家庭状況に左右されるべきではありません。第二に、専門職の価値は教育と倫理によって守られます。第三に、働く場を広げるには、制度と組織を作る人材が必要です。
「風、薫る」をきっかけに二人を知るなら、ドラマの人物像だけでなく、看護という仕事が専門職になるまでの長い過程にも目を向けたいところです。大関和と鈴木雅が残したものは、看護史の一ページにとどまりません。学びを通じて人生を組み替え、職業の尊厳を社会に根づかせるための実践の記録です。
参考資料:
- 連続テレビ小説「風、薫る」 | ステラnet
- NHKドラマ・ガイド 連続テレビ小説 風、薫る Part1 | NHK出版
- 大関和に学ぶ看護師誕生の歴史 ①感染症対策で「衛生」の観念を広げる | ERCA
- 大関和に学ぶ看護師誕生の歴史 ②「卑しい職業」から、なくてはならない専門職に | ERCA
- 大関和に学ぶ看護師誕生の歴史 ③高い専門性を磨き、より良い治療につなげる | ERCA
- 看護師養成の歴史 | 日本赤十字社
- 日本看護歴史学会
- 日本最初の「看護婦」大関ちか | 女子学院
- 特設サイト 大関ちかの歩みをたどって | 女子学院
- 鈴木雅とは | コトバンク
- 鈴木雅の生涯 | サライ.jp
- 大関和を追いかけて | 栃木県立図書館
- 看護職員確保対策 | 厚生労働省
- 看護統計資料 | 日本看護協会
- 2040年に向けた看護職員の養成・確保の在り方に関する資料 | 厚生労働省
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