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穴掘り財政の誤解を解くケインズ有効需要論と公共投資政策の真意

by 松本 浩司
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穴掘り寓話を生んだ大恐慌期の財政論争

「政府は人に穴を掘らせて埋めさせれば景気がよくなる」。ケインズをめぐるこの通俗的な説明は、半分だけ似ていて、肝心なところを外しています。『一般理論』にあるのは、深刻な失業下では有効需要の不足が所得と雇用を押し下げるため、たとえ収益性の低い投資でも何もしないより社会的損失を小さくし得る、という極端な例示です。1929年に始まった大恐慌では米国のGDPが大きく落ち込み、失業率も1933年に25%へ達したとされます。問題は「無駄を正当化する理論」ではなく、民間投資が止まった時に政府が何を代替し、どこで手を引くかです。

『一般理論』が示した乗数と有効需要の条件

この誤解は、現在の日本財政を考えるうえでも厄介です。財政出動に慎重な側は、ケインズ政策を浪費の別名として退けやすくなります。反対に、財政拡張を唱える側は、支出の中身や景気局面を問わず「需要を作ればよい」と言いやすくなります。どちらも原典からは離れています。ケインズが見ていたのは、貯蓄と投資、雇用と所得、金利と期待が同時に動くマクロ経済の連鎖です。

だから、議論の出発点は「穴掘りを認めるか」ではありません。民間が将来利益を読めず投資を止めた時、政府支出が所得の崩落を止められるか。景気が戻った時、その支出を縮める制度があるか。さらに、借入で調達した資金が将来の供給力を高めるか。この三つを分けて読むと、ケインズの財政論は財政赤字の免罪符ではなく、危機対応の条件論として見えてきます。

古瓶の紙幣と住宅建設の対比

ケインズが第10章で使った有名な寓話は、財務省が紙幣を古い瓶に入れ、廃坑に埋め、民間企業に掘り出させるというものです。これは「政府が直接、意味のない作業を発注せよ」という実務提案ではありません。むしろ、金鉱掘りが社会的に受け入れられるなら、同じような需要創出効果を平時の投資に向けられないのか、という皮肉を含んでいました。

同じ文脈で、ケインズは住宅などを建てるほうが明らかに賢明だとも述べています。1931年の「Saving and Spending」でも、彼は地方自治体や家計に対し、改善し、建て、活動することを促しました。そこにあるのは、仕事を作るための作業ではなく、遊休労働と遊休設備を使って将来の生活条件を良くする発想です。

誤解が広がった理由は、ケインズの極端な比喩が、反対派にも支持派にも便利な標語になったからです。後年の研究が整理するように、「掘って埋める」という短い言い換えは、古瓶の寓話や乗数理論から切り出されました。しかし、その切り出し方は、政策目的を「無意味な労働」に置くかのように見せてしまいます。ケインズの眼目は、有効需要が足りない経済では、雇用、所得、消費が互いに縮む悪循環を断つことでした。

失業期だけ強まる乗数効果の限定条件

『一般理論』第10章の中核は乗数です。投資が増えると、最初に雇われた人の所得が消費に回り、それが別の企業の売上と雇用を押し上げます。IMFの概説も、ケインズ経済学を総需要の不足と景気循環の安定化を扱う理論として説明しています。したがって、公共事業の価値は、最初の支出額だけでなく、波及的に生まれる所得まで含めて測る必要があります。

ただし、ケインズは乗数を魔法の係数として扱っていません。第10章では、満雇用に近づくほど追加投資による雇用増は難しくなり、真のインフレに至る可能性があるとしています。さらに、開放経済では需要の一部が輸入に漏れ、金利上昇や企業心理の悪化が民間投資を抑える場合もあります。これは、財政出動が常に同じ強さで効くという主張とは正反対です。

ここで重要なのは、乗数が「支出額に固定倍率を掛ける装置」ではないことです。限界消費性向が高く、遊休設備が多く、中央銀行が金利上昇を急がず、輸入漏出が小さい時ほど効果は大きくなります。反対に、建設資材や人手が不足し、金利が上がり、民間が将来増税を警戒すれば、同じ1兆円でもGDPと雇用への波及は弱まります。ケインズ自身も、資金調達、信認、貿易構造による相殺を明示していました。

ケインズが「疑わしい効用」の公共事業に触れたのも、深刻な失業で失業給付などの社会的費用が膨らむ局面に限定された議論です。失業者が再び働けば、給付支出が減り、税収も戻ります。何もしない場合の損失と比べれば、見た目の収益率が低い事業でも社会全体ではプラスになり得る、という比較です。ここで比較対象になっているのは、理想的な民間投資ではなく、放置された失業です。

第16章の「穴を掘る」一節も、無駄な支出への賛歌ではありません。利子率が十分に下がらず、貯蓄意欲が投資需要を上回る社会では、価値を生まない資産への逃避でさえ、雇用を増やす限り景気を下支えし得るという逆説です。直後にケインズは、賢明な社会が偶然で浪費的な緩和策に依存し続けるのは合理的ではないと釘を刺しています。極端な例は、まともな投資の必要性を強調するための比較対象でした。

日本の高債務下で問われる公共投資の質

閉じた需給ギャップと補助金の限界

現代日本にこの議論を当てはめると、まず景気局面が違います。IMFの2025年対日審査声明は、日本の需給ギャップが閉じていると評価し、中期的な潜在成長率を0.5%程度と見ています。OECDの2026年見通しも、実質GDP成長率を2026年0.6%、2027年0.8%とし、国内需要が主な支えになるとしています。これは、大恐慌型の大規模な需要不足とは異なる環境です。

日本銀行も需給ギャップと潜在成長率を、経済・物価情勢を判断する重要指標として四半期ごとに公表しています。もっとも日銀自身が、需給ギャップは推計手法でかなり異なるため幅を持って評価すべきだと説明しています。政策判断では、単一の推計値だけで「需要不足だから何でも支出」と結論づけることはできません。賃金、稼働率、求人、価格転嫁、輸入価格を同時に見る必要があります。

OECDは2026年の日本について、エネルギー補助金や税制改正で財政スタンスが拡張的になると見ています。一方で、一次財政赤字は2025年のGDP比1.0%から2026年に1.6%へ広がる見通しです。燃料価格の上限措置や電気・ガス補助金は家計を支えますが、価格シグナルを弱め、脱炭素投資や省エネ投資を遅らせる副作用もあります。ケインズ的な財政政策を名乗るなら、補助金で価格上昇を薄めるだけでなく、生産能力と生活の質を高める支出かどうかを問う必要があります。

成長投資と恒久給付の分岐点

ケインズが重視したのは、将来の収益や便益を生む投資です。CBOは米国の物的インフラ支出について、追加的なインフラ資本が潜在GDPを押し上げる一方、支出の速度、資金調達、州・地方政府の反応で効果が変わると分析しています。借入で賄う場合は短期の需要を押し上げても、長期には金利上昇や民間投資の押し出しが効きます。これは日本にもそのまま当てはまる重要な論点です。

IMFの公共投資研究も、公共投資が民間投資を呼び込むかどうかは企業の財務状態や資金制約に左右されると示しています。低レバレッジで投資余力のある企業には道路、電力網、通信、教育、研究開発の改善が効きやすい一方、過剰債務の企業には波及が弱くなります。つまり、公共投資は総額よりも、民間の設備投資、労働移動、技術採用を妨げるボトルネックを取り除けるかで評価すべきです。

日本の財務省は、政府債務残高がGDPのおよそ2倍に積み上がっていると説明し、財政の持続可能性と市場の信認を重視しています。OECDの日本経済審査でも、総債務残高は2024年にGDP比約206%でOECD最高水準とされます。名目成長率が利払いコストを上回る間は債務比率が下がり得ますが、それは恒久的な免罪符ではありません。金利が上がり、高齢化関連支出が増えれば、同じ財政赤字でも市場の受け止めは変わります。

したがって、ケインズの真意に近い財政出動とは、需要が弱い時に前倒しでき、需要が強い時には縮小でき、完成後には民間の生産性を上げる支出です。防災、送電網、港湾、デジタル行政、保育・介護人材の訓練、大学・研究機関と企業を結ぶ基盤は候補になります。逆に、政治的な配分を毎年延長するだけの給付や補助は、乗数よりも財政リスクを残しやすい支出です。

国際経済の視点では、財政支出の国内波及も見落とせません。輸入比率の高い財やエネルギーに需要が流れる政策は、国内の雇用を生む力が弱くなります。逆に、国内の供給制約を解く投資、たとえば送電網、港湾物流、半導体関連の人材育成、行政手続きのデジタル化は、輸出競争力や対内投資の呼び水にもなります。ケインズの乗数を現代に読み替えるなら、国内だけで閉じた需要管理ではなく、為替、貿易、国際資本移動を含めた設計が欠かせません。

物価上昇局面で強まるケインズ政策の副作用

2026年の日本では、需要不足よりも供給制約と物価の粘着性が重いテーマです。日銀は2025年12月の金融政策決定会合で政策金利を0.75%程度へ引き上げ、賃金と物価が緩やかに上昇するメカニズムの定着を点検する局面に入りました。OECDも、企業の中期的な物価予想が2%を上回り、10年物国債のブレークイーブンインフレ率が上昇していることを指摘しています。

この環境で広範な財政出動を続けると、ケインズが警告した満雇用接近時のインフレ制約にぶつかります。建設業や介護、物流、IT人材で供給制約が強い場合、政府が発注を増やしても実質生産は伸びず、単価と賃金だけが上がりやすくなります。賃金上昇自体は望ましい面がありますが、生産性を伴わない賃上げは企業収益と家計購買力を同時に圧迫します。

IMFの研究は、低金利環境では政府支出乗数が1を超えやすい一方、初期債務比率が高く、税負担が重く、中央銀行がインフレに敏感に反応する状況では乗数が大きく低下し得るとしています。日本は長く低金利に支えられてきましたが、政策金利は正常化方向にあり、国債市場も日銀の買入れ減額を織り込む段階です。財政政策と金融政策が逆方向に走れば、金利、為替、期待インフレを通じて効果が相殺されます。

歴史的にも、ケインズ政策はインフレ環境で再検討を迫られてきました。IMFの概説は、1970年代のスタグフレーションが伝統的なケインズ理論の弱点を浮き彫りにし、金融政策や期待形成を重視する方向へ理論を変えたと説明しています。米国の大インフレ期も、失業率とインフレ率の安定した交換関係を前提にした政策運営がうまくいかなかった例です。需要を押し上げれば常に雇用が増える、という単純化はここで崩れました。

もう一つの副作用は、国際経済への漏れです。ケインズ自身も開放経済では乗数の一部が海外雇用に流れると述べています。現代日本でエネルギー価格対策として可処分所得を増やしても、輸入燃料や海外製品への支出が増えれば国内生産への波及は限られます。円安局面では輸入物価上昇を通じて家計支援の効果が薄まり、財政赤字だけが残る可能性があります。

だからこそ、現代のケインズ政策は「大きければよい」ではありません。景気後退時には失業を防ぐ自動安定化装置を厚くし、平時には補正予算の常用を抑え、予算を成長率の底上げに寄せる設計が必要です。大恐慌期の知恵を2026年の日本に移すなら、需要の量よりも、供給力、分配、インフレ期待を同時に管理する政策能力が問われます。

財政出動を見極める三つの物差し

ケインズを「穴掘り財政」の擁護者として読むと、財政規律を軽視する側にも、財政出動を一律に退ける側にも都合のよい標語になります。しかし『一般理論』から読み取るべきなのは、失業、利子率、期待、開放経済、満雇用への距離をそろえて見なければ、同じ支出でも効果が変わるという実務的な視点です。

読者が財政出動を評価する物差しは三つあります。第一に、需給ギャップや失業率から見て本当に需要不足なのか。第二に、その支出が完成後の潜在成長率を押し上げる公共投資なのか。第三に、金利上昇や将来増税を含めても債務比率を安定させる計画があるのか。この三条件を満たす支出は、ケインズの有効需要論に近い政策です。

投資家や企業にとっては、補正予算の総額より配分を見ることが実務的です。建設国債か赤字国債か、単年度の現金給付か複数年のインフラ投資か、民間投資を補完する規制改革が同時に進むかで、金利と成長率への影響は変わります。有権者にとっても、家計支援の即効性だけでなく、終了条件と財源を確認することが重要です。期限のない政策は、景気対策ではなく歳出構造になります。

逆に、景気が大きく落ち込んでいないのに、期限のない補助金や選挙向け給付を積むだけなら、それはケインズではなく単なる先送りです。穴を掘って埋める比喩の本当の教訓は、無駄を許すことではありません。何もしない無駄と、将来を良くする支出を峻別し、危機時には迅速に、平時には厳しく選ぶことです。

参考資料:

松
松本 浩司

マクロ経済・国際経済

国際経済の潮流を、通商政策・為替・新興国の動向から多角的に分析。グローバル経済の「次の震源地」を見極める。

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