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有事のドル買いとドル離れが同時進行する為替市場の深層分析と展望

by 松本 浩司
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2026年イラン情勢で浮かぶドルの二面性

「有事のドル買い」と「ドル離れ」は、一見すると両立しにくい現象に映ります。実際、2026年3月のイラン情勢緊迫化では、Reutersが伝えたように投資家の資金はドルへ向かい、ドルは改めて典型的な逃避先として買われました。一方で、国際通貨の土台を示す準備資産や決済の世界では、各国がドルへの依存を少しずつ薄める動きも続いています。

このねじれを理解するには、「短期の市場行動」と「長期の制度設計」を分けて見る必要があります。前者では、危機時にすぐ使える流動性と担保の厚みが重視されます。後者では、制裁リスクや地政学、米国の政策不確実性を踏まえた分散投資が進みます。この記事では、中東情勢、原油輸送、外貨準備、国際決済のデータをつなぎながら、なぜ矛盾が同時に成立するのかを整理します。

有事でドルが買われる構造

流動性と担保力を支える米国市場の厚み

有事局面でドルが買われやすい最大の理由は、米国金融市場の深さです。FRBの2025年版ドル国際化レポートによれば、ドルは2024年時点で世界の開示済み外貨準備の58%を占め、2025年1〜3月期には外国投資家が米国の市場性国債を9兆ドル、発行残高の32%保有していました。危機時には「安全な資産」そのものだけでなく、いつでも現金化でき、担保にも使える市場が必要になります。その条件を最も満たしているのが米国債市場です。

BISの2025年トリエンナーレ調査でも、ドルは世界の外国為替取引の89.2%で片側通貨として登場しました。ユーロは28.9%、円は16.8%、人民元は8.5%で、依然としてドルの存在感が突出しています。市場参加者が危機時にまずドルを確保するのは、慣性ではなく、決済・担保・ヘッジをまとめて処理できる実務上の合理性によるものです。

中東有事とエネルギー市場が生むドル需要

今回の中東情勢では、その合理性がさらに強まりました。IEAは2025年にホルムズ海峡を通過した原油・石油製品が日量平均2000万バレル、世界の海上石油貿易の約4分の1に当たると整理しています。EIAも、2024年に世界のLNG貿易の約20%がホルムズ海峡を通過したと示しています。原油もLNGも主な値決め通貨はドルであり、物流の不安、保険料の上昇、在庫確保が重なると、企業と金融機関のドル需要は増えやすくなります。

Reutersは3月2日、米国の対イラン攻撃後にドルが急伸し、投資家がドルの逃避通貨機能を再確認したと報じました。3月12日にも、原油高が欧州の輸入依存経済を圧迫するとの見方から、ドルが対ユーロで上昇したと伝えています。つまり、有事のドル買いは「米国が安全だから」だけではなく、「エネルギーと金融の基軸インフラがドル中心だから」起きる面が大きいのです。

それでも進むドル離れの実像

準備資産の分散と決済の多極化

長期の視点では、各国がドル一極集中を避ける動きも確かに進んでいます。IMFのCOFERによると、2025年10〜12月期のドル比率は56.77%でした。2001年の72%前後と比べれば大きく低下しています。ただし、その低下分の多くはユーロや人民元に一気に移ったわけではなく、豪ドル、カナダドル、スイスフラン、そして統計上の「その他通貨」に分散しています。これは「反ドル」よりも「分散」の色合いが強い変化です。

人民元の伸びも、象徴的な存在感と実務上の制約が並存しています。SWIFTの2025年12月版RMB Trackerでは、2025年11月の人民元シェアは世界決済で2.94%、ユーロ圏域内を除く国際決済で2.20%でした。一方、同資料では貿易金融でのシェアが2025年12月に8.36%とされており、貿易の一部では着実に利用が増えています。つまり、人民元は「使われる場面」は増えているものの、ドルの代替として全面的に置き換える段階にはまだ達していません。

ドル不信を広げる政策ショック

ドル離れを後押しする材料は、決済インフラの拡充だけではありません。ECBは2025年11月の金融安定報告特集で、同年4月の米関税ショック時にドルが典型的なリスク回避局面とは逆に下落し、米国債利回りが上昇したと分析しました。VIXは世界金融危機とコロナ危機を除けば例のない水準まで上がったにもかかわらず、ドルは自然なヘッジとして機能しなかったという整理です。

この現象は重要です。市場は「危機なら常にドル」とは見ておらず、米国発の政策不確実性がショックの震源地になると、ドルと米国債が同時に売られる可能性も意識し始めています。Atlantic Councilも、ドル支配はなお強固だとしつつ、制裁の武器化や米政策の不安定化が中長期の分散を促すと指摘しています。ドル離れとは、ドルが不要になる話ではなく、米国依存を減らす保険を増やす動きと捉えるのが実態に近いです。

ドル覇権継続と4月停戦後の巻き戻し

「ドル離れ」の過大評価への注意

注意すべきは、「ドル離れ」がすぐにドル覇権の終わりを意味するわけではない点です。FRBは、ドルの国際利用指数がなお他通貨を大きく上回ると示しています。BISの取引シェア、IMFの準備比率、SWIFTの決済シェアを並べても、ドルの基盤は依然として圧倒的です。とくに危機時には、代替通貨よりもドル資金供給網と米国債市場の厚みが物を言います。

一方で、各国の備え方は変わっています。外貨準備を少しずつ分散し、貿易決済を複線化し、制裁や米政策転換への耐性を高める流れは今後も続く公算が大きいです。4月7日の米・イラン2週間停戦合意を受けてReutersはドルが幅広く下落したと伝えましたが、これは危機時に積み上がったドル需要が、緊張緩和で巻き戻されたことを示します。短期のドル買いと長期のドル離れは、時間軸が違うからこそ矛盾せず共存します。

短期ドル優位と長期多極化の二面性

有事のドル買いは、ドルが依然として世界で最も使いやすい流動性資産であることの表れです。中東情勢のようにエネルギーと海上輸送が揺れる局面では、その傾向がいっそう強まります。他方で、準備資産と決済手段の分散は、各国が米国依存を少しずつ減らそうとする長期戦略です。

為替市場を見るうえで重要なのは、「ドルは今も最強だが、以前ほど無条件ではない」という二面性です。短期の危機対応ではドル優位、長期の制度設計では多極化。この二つを分けて考えることで、足元の相場変動と国際通貨秩序の変化を同時に読み解きやすくなります。

参考資料:

松本 浩司

マクロ経済・国際経済

国際経済の潮流を、通商政策・為替・新興国の動向から多角的に分析。グローバル経済の「次の震源地」を見極める。

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