花咲線・釧網本線を廃止できない国境の会計事情と安全保障の現実
赤字線区を国境交通として見る視点
花咲線と釧網本線をめぐる議論は、利用者数だけを見れば厳しいものです。JR北海道の2025年度線区別データでは、花咲線にあたる根室線の釧路~根室間は輸送密度201人、釧網線の東釧路~網走間は370人にとどまります。いずれもJR北海道が「黄色線区」と位置づける、輸送密度200人以上2,000人未満の維持困難線区です。
ただし、この2線区は単なる観光ローカル線ではありません。根室半島の先には北方領土があり、納沙布岬から歯舞群島の貝殻島までは3.7kmです。国境地域に人が住み続け、学校・医療・行政・観光・水産業が日々動くための基盤として、鉄道の価値を再計算する必要があります。
会計上の赤字は無視できません。一方で、廃止によって消えるのは鉄道費用だけではなく、代替交通、防災、道路維持、観光ブランド、地域の定住力に関わる別の費用が発生します。この記事では、営業損益と安全保障の両面から、なぜ花咲線と釧網本線を簡単に廃止できないのかを整理します。
営業損益が示す維持費の重さ
観光回復でも重い釧網線の固定費
釧網線は、東釧路から摩周、知床斜里を経て網走へ向かう166.2kmの長大な路線です。釧路湿原、摩周湖、知床、オホーツク海を結ぶ観光回廊であり、JR釧網本線維持活性化実行委員会も、道東の広域周遊観光と都市機能をつなぐ路線として位置づけています。
2025年度の釧網線は、営業収益が3億6200万円、営業費用が21億6900万円、営業損失は18億700万円でした。2024年度の営業損失19億1900万円からは改善していますが、赤字の絶対額はなお大きい水準です。営業係数は管理費を含めて600円で、100円の収益を得るために600円の費用がかかる計算です。
ここで重要なのは、収益回復だけでは損益改善が追いつかない構造です。2024年度検証報告では、国内外の観光客利用の増加により定期外収入は増えたものの、線路修繕費や新型車両導入に伴う減価償却費が増え、基本指標を下回ったと整理されています。つまり、観光需要の掘り起こしは必要条件ですが、十分条件ではありません。
釧網線の収支改善目標は、2026年度末時点で5億2700万円の改善を目指し、目標達成時の線区収支を9億7000万円の赤字に抑える設計です。現実には、鉄道施設の老朽化、安全投資、燃料費、人件費が下支えする固定費が重く、単年度のキャンペーンでは埋め切れない赤字が残ります。
通学減と修繕費に揺れる花咲線
花咲線は、根室線の釧路~根室間135.4kmの愛称です。厚岸、浜中、落石、根室を結び、北海道最東端の都市へ向かう鉄道として知られます。観光面では湿原、海岸段丘、花咲ガニ、納沙布岬への玄関口という魅力がありますが、沿線人口の減少が利用基盤を細らせています。
2025年度の花咲線は、営業収益が1億8400万円、営業費用が15億6100万円、営業損失は13億7700万円でした。輸送密度は2024年度の217人から201人へ下がっています。2017年度実績を目標に置く実行計画では、2026年度末の輸送密度目標を264人、線区収支目標を11億1000万円の赤字としていますが、足元との差は小さくありません。
2024年度検証報告では、観光利用収入の増加があった一方、修繕費の増加が収支を圧迫したとされています。さらに、通学利用の減少傾向も明記されています。これは会計上、非常に重い問題です。通学定期は単価が高いわけではありませんが、平日需要を安定させる基礎票です。その減少は、観光列車やフリーパスで補うには限界があります。
それでも、花咲線の廃止判断は単純な赤字削減では終わりません。代替バスを走らせるとしても、冬季の道路状況、長距離運行の運転士確保、観光客の移動体験、災害時の分散輸送をどう維持するかが残ります。鉄道費用を削っても、地域交通サービス全体のコストが本当に下がるかは、別途検証が必要です。
根室の国境性が変える費用対効果
3.7km先にある国境の緊張
根室の特殊性は、地図を見れば明らかです。内閣府の北方領土資料では、歯舞群島は根室半島の延長線上3.7kmの沖合から点在すると説明されています。つまり、根室は抽象的な「北の町」ではなく、日本の主権問題と日常生活が重なる国境地域です。
防衛省の防衛白書は、ロシアが国後島、択捉島、色丹島に地上軍部隊を配備し、近年も施設整備や沿岸ミサイルなどの装備配備を進めているとしています。さらに、オホーツク海はロシアの戦略原子力潜水艦の活動領域として重要性が高いとされ、北方領土周辺の軍事的意味は増しています。
もちろん、花咲線や釧網本線は軍事インフラではありません。しかし、国境地域の安全保障は自衛隊施設だけで成り立つものではありません。住民が暮らし、行政が機能し、観光客が訪れ、漁業が続き、地域に外部から人が入る状態そのものが、平時の国土管理を支えます。公共交通はその基礎にあります。
この観点では、鉄道の赤字は「乗客が少ないから不要」という単線の損益では測り切れません。国境地域における鉄道は、地域の存在感を保つための社会的オプションでもあります。廃止によって日常の移動が細れば、若年層の流出、観光滞在の短縮、行政サービスの遠隔化が進み、結果として地域の維持費が別の形で膨らむ可能性があります。
水産・観光・防災を束ねる移動基盤
根室市の人口は、1964年の4万8629人から2024年末には2万2468人まで減っています。人口減少は鉄道利用を直撃しますが、地域の経済機能が消えたわけではありません。根室振興局管内の水産業は、2022年の生産量が約10.0万トン、生産額が約390億円で、全道の中でも重要な水産地域です。
釧路・根室管内全体で見ても、水産業は釧路港や根室港を中心に全国有数の水産物供給基地として機能しています。酪農、観光、食品製造も含め、道東は広大な面積に分散した産業を抱えます。人流は少なくても、地域が担う生産機能は小さくありません。
鉄道は貨物輸送の主役ではないとしても、観光客、通学者、出張者、医療・行政目的の移動を支えます。特に釧網線は釧路湿原や知床方面の周遊観光をつなぎ、花咲線は根室観光の入口になります。車を運転しない高齢者や訪日客にとって、鉄道があるかどうかは移動可能性を大きく左右します。
防災面でも、単一の交通手段に依存する地域は脆弱です。根室市統計書には、暴風雪、高潮、津波、道路冠水、停電などの被害記録が並びます。鉄道も災害に弱い場面はありますが、道路と鉄道の二重化は、広域避難や復旧期の移動確保に意味を持ちます。特に冬季の道東では、交通の冗長性そのものが公共財です。
費用分担を先送りできない三つの論点
JR北海道は2024年3月、国土交通省から改めて監督命令を受けました。国は2024年度から2026年度まで、JR北海道に1092億円の支援を継続するとともに、黄色線区について2026年度末までに抜本的な改善方策を取りまとめるよう求めています。現在は猶予期間ではなく、制度設計の締め切りが迫る局面です。
第一の論点は、JR単体で負担すべき費用と、地域・国が負担すべき費用の切り分けです。鉄道会社の経営努力は当然必要ですが、国境地域の維持、防災、観光政策、地域定住は企業会計の外部にあります。企業の損益計算書だけに公共目的の費用を押し込めば、いずれ投資不足となり、安全性や利便性が劣化します。
第二の論点は、上下分離や地域負担を導入する場合の透明性です。線路や駅などのインフラ保有と、列車運行を分ける仕組みは、各地の地域鉄道で採用例があります。ただし、負担を自治体に移すだけでは持続しません。沿線自治体の財政規模、人口減少、除雪や道路維持との重複を踏まえ、国がどこまで関与するのかを明確にする必要があります。
第三の論点は、観光利用を収益源にするなら、商品設計を本気で変えることです。釧網線ではノロッコ号やSL冬の湿原号、流氷物語号など観光資源があります。花咲線でもフリーパス、指定席、減速運転、車内販売などが試されています。単発イベントではなく、航空、宿泊、バス、レンタカー、ガイドと連動した販売導線を作らなければ、収支改善は限定的です。
ここで財務的に見るべきなのは、営業赤字の絶対額だけではありません。追加施策により、定期外収入がどれだけ増え、固定費のうち何を削減でき、地域負担がどの公共目的に対応しているのかを分けて管理することです。観光振興費、防災インフラ費、生活交通費を混ぜたままでは、住民にも納税者にも説明できません。
存続判断で読むべき会計指標
花咲線と釧網本線の存廃は、情緒だけでも、単年度赤字だけでも判断できません。見るべき指標は、営業損益、輸送密度、修繕投資、代替交通費、観光消費、通学・医療アクセス、防災時の冗長性、そして国境地域の維持価値です。特に根室方面では、国土の端に人が住み続ける価値をどの会計に載せるのかが問われます。
読者が注視すべき次の節目は、2026年度末までに示される抜本的改善方策です。JR北海道、北海道、沿線自治体、国が、誰のために何を維持し、誰がどの費用を負担するのかを明示できるかが焦点になります。廃止か存続かの二択ではなく、国境交通として必要な機能を定義し、その機能を最小の社会コストで守る設計こそが、道東の鉄路に求められています。
参考資料:
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