カスハラ対策義務化で交通誘導警備員の孤立はどこまで現場で防げるか
カスハラ義務化が警備現場に持つ重み
「その場から解放されたい」という一心で、警備員が理不尽な要求に従わざるを得なくなる。ネコのエサを食べたという衝撃的な事例が投げかけるのは、顧客対応の失敗談ではなく、働く人の尊厳と安全を誰が守るのかという問いです。
2026年10月1日から、カスタマーハラスメント対策は全ての事業主の義務になりました。厚生労働省の指針は、顧客等の言動が社会通念上許容される範囲を超え、労働者の就業環境を害する場合をカスハラと位置づけています。重要なのは、現場の我慢や機転に依存してきた対応を、企業の雇用管理の問題へ移した点です。
警備業、とりわけ交通誘導の現場では、労働者が屋外で単独対応し、住民や通行人、発注者、工事関係者の不満を一身に受けやすい構造があります。法施行で理不尽なカスハラは減るのか。答えは、制度だけでは足りませんが、現場の孤立を減らす強い足場にはなります。
交通誘導警備員が孤立しやすい構造
警察庁によると、2024年末時点の警備業者数は1万811業者、警備員数は58万7848人です。施設警備、雑踏警備、交通誘導、現金輸送、身辺警備など業務は幅広く、警備業は生活安全を支える産業として社会の隅々に入り込んでいます。
一方で、人手不足と高齢化は深刻です。警察庁の警備業省力化計画では、全警備員のうち60歳以上が47%、65歳以上が34.3%、70歳以上が20.9%とされています。厳しい暑さや寒さ、長時間の立哨、交通リスクに加え、暴言や過度な要求が重なれば、採用難と離職に直結します。
厚生労働省の令和5年度調査では、過去3年間に顧客等からの著しい迷惑行為を受けた労働者は10.8%でした。企業側では、過去3年間にカスハラ関連の相談があった割合が27.9%にのぼります。相談件数の傾向でも、顧客等からの著しい迷惑行為は「増加している」とする割合が「減少している」を上回りました。
苦情処理と安全確保の同時進行
交通誘導警備員の難しさは、苦情を聞きながら安全確保を止められない点にあります。店舗のカウンターなら上司を呼ぶ、バックヤードに下がる、録音環境を整えるといった選択肢があります。しかし道路工事や建築現場の周辺では、車両、歩行者、作業員の動線を同時に見なければなりません。
住民から見れば、騒音、粉じん、通行の不便は生活上の切実な問題です。正当な苦情は軽視できません。けれども、その不満が人格否定、長時間拘束、過度な謝罪要求、金品要求、無断撮影、SNSでの晒しに変わった瞬間、警備員個人の対応能力を超えます。
全国警備業協会は、警備員に対する暴言、威嚇、人格否定などが警備員の尊厳を傷つけるだけでなく、適正な警備業務にも支障をきたすと整理しています。これは大事な視点です。カスハラは「かわいそうな労働者」の問題にとどまりません。誘導判断が乱れれば、事故防止という本来業務そのものが揺らぎます。
発注者と警備会社の責任分断
警備現場のもう一つの弱点は、責任の分断です。警備員を雇っているのは警備会社ですが、現場を動かすのは建設会社や店舗、イベント主催者などの発注者です。苦情を言う住民や利用者は、警備会社の直接の顧客ではないことも多くあります。
この構造では、警備員が「とりあえず謝って収める」役割を押しつけられがちです。発注者は工期や営業への影響を避けたい。警備会社は契約継続を気にする。現場責任者は忙しい。その隙間で、最前線の警備員だけが相手の怒りを受け続ける構図が生まれます。
法施行の意味は、ここにあります。改正労働施策総合推進法は、事業主に相談体制の整備、適切な事後対応、抑止のための措置などを求めています。つまり「現場で何とかして」では済まなくなりました。発注者との契約、現場責任者への引き継ぎ基準、複数名対応、退避判断、警察や弁護士への接続まで、事前に設計する必要があります。
警備員のキャリア形成という観点でも、これは重要です。経験を積んだ人ほど理不尽な対応を背負わされる職場では、熟練が報われません。熟練者が新人に教えるべきなのは、ひたすら耐える作法ではなく、危険な要求を見極め、組織に渡す判断です。そこが変わらなければ、警備業は人材を育てる前に失ってしまいます。
法施行で企業に求められる防衛線
今回の義務化は、顧客個人を一律に処罰する制度ではありません。主語はあくまで事業主です。事業主が、労働者の就業環境を害する顧客等の言動を防ぐため、雇用管理上必要な措置を講じることが求められます。
厚生労働省の解説では、事業主が講じるべき措置として、方針の明確化と周知、相談体制の整備、事後の迅速で適切な対応、カスハラ抑止のための措置、プライバシー保護や不利益取扱い禁止が示されています。これらは、ポスターを貼るだけで終わるものではありません。
厚生労働省の調査では、顧客等からの著しい迷惑行為の内容として「継続的な、執拗な言動」が72.1%、「威圧的な言動」が52.2%、「精神的な攻撃」が44.7%とされています。損害や被害では「通常業務の遂行への悪影響」が63.4%、「労働者の意欲・エンゲージメントの低下」が61.3%でした。数字が示すのは、カスハラが感情の問題ではなく、業務品質と人材定着の問題だという事実です。
相談体制を紙の制度で終わらせない運用
相談窓口の設置は出発点にすぎません。交通誘導警備では、現場が分散し、勤務時間も不規則です。日報に書く、隊長に電話する、本社の相談フォームを使うという仕組みがあっても、相談した人が「現場を回せない人」と見なされるなら機能しません。
必要なのは、相談を評価に不利にしない明文化です。さらに、相談後に誰が発注者へ伝えるのか、どの時点で配置を替えるのか、悪質な相手には誰が対応を打ち切るのかを決めておくことです。現場の警備員が苦情の内容を時系列で残せるよう、スマートフォンで簡単に記録できる仕組みも有効です。
厚生労働省のQ&Aは、クレームの初期対応として、まず状況を正確に把握し、事実確認を行うことを示しています。一方で、暴力やセクハラ行為を受けた場合は一人で対応しないことも強調しています。警備業では、この「一人で対応しない」を制度化することが核心です。
たとえば、長時間拘束が一定時間を超えたら隊長に交代する、人格否定や脅迫が出たら発注者側責任者へ引き継ぐ、無断撮影やSNS投稿の示唆があれば本社へ即時共有する、といった基準が必要です。基準がなければ、警備員は「自分の判断で逃げた」と感じてしまいます。基準があれば、退避は職務放棄ではなく安全行動になります。
現場教育を我慢の訓練から判断の訓練へ
警備員教育では、礼節、冷静な応対、法令順守が重視されてきました。それ自体は不可欠です。しかしカスハラ対策の時代には、丁寧さだけでなく境界線を引く教育が必要になります。
教育の中心に置くべきは、三つの判断です。第一に、要求内容が妥当かどうか。第二に、手段や態様が社会通念上相当かどうか。第三に、就業環境や安全業務に支障が出ているかどうかです。この三つを、事例演習で学ぶ必要があります。
新人に「怒らせないようにしなさい」とだけ教える職場では、理不尽な相手ほど強くなります。代わりに、「どの言動が出たら記録するか」「どの言動が出たら交代を求めるか」「どの言動が出たら対応を終えるか」を学ぶべきです。これは接遇を軽んじることではありません。正当な苦情に誠実に向き合うためにも、危険な言動を早く切り分ける力が要ります。
発注者教育も欠かせません。警備会社だけが研修しても、発注者が「近隣対応は警備員に任せる」という姿勢なら、防衛線は崩れます。契約時に、苦情対応の一次受け、現場説明、住民への周知、悪質行為時の対応打ち切り基準を合意しておくことが必要です。
全国警備業協会の基本方針は、悪質な場合には警察等の関係機関と連携して厳正に対応するとしています。この方針を現場の言葉に落とし込むことが、法施行後の実効性を左右します。大切なのは、警備員に強い言葉を言わせることではありません。警備員が一人で強くならなくてよい仕組みを作ることです。
正当な苦情まで萎縮させない線引き
カスハラ対策には副作用のリスクもあります。企業が防衛に傾きすぎると、正当な苦情まで「カスハラ」として退ける空気が生まれかねません。工事騒音、通行規制、誘導ミス、説明不足への苦情は、住民や利用者にとって生活上の権利に関わる場合があります。
厚生労働省は、すべてのクレームがカスハラに当たるわけではなく、客観的に社会通念上許容される範囲の正当な申入れはカスハラではないと説明しています。ここを曖昧にすると、現場は別の不信を招きます。
また、障害者差別解消法では、2024年4月1日から事業者による合理的配慮の提供が義務化されています。障害のある人が社会的障壁の除去を求める意思を示すこと自体は、カスハラではありません。認知症や障害特性への理解も含め、現場教育は「拒むための教育」ではなく「適切に受け止め、危険な態様だけを切り分ける教育」であるべきです。
法施行で残る課題は、中小警備会社の実装力です。相談窓口、記録、研修、発注者調整を整えるには人も時間も要ります。小規模事業者ほど、本社機能が薄く、現場の隊長に負担が集まりやすいからです。業界団体のひな形、共通マニュアル、発注者側の標準契約条項が普及するかどうかが、制度の成否を分けます。
働き続けられる警備職への転換条件
理不尽なカスハラは、法施行だけで一気になくなるものではありません。しかし、警備員が一人で謝り続ける職場から、会社と発注者が一緒に守る職場へ変える力はあります。
読者が注視すべきは、企業が方針を出したかではなく、現場で退避、交代、記録、発注者連携が実際に動くかです。警備会社にとっては、カスハラ対策はコンプライアンス対応であると同時に、人材定着と教育投資の土台です。
警備員の仕事は、社会の安全を支える専門職です。その専門性を守るには、理不尽を飲み込む忍耐ではなく、正当な苦情を受け止めつつ不当な攻撃を組織で止める技能が必要です。法施行後の本当の変化は、現場の警備員が「助けを求めてよい」と迷わず言える職場が増えるかどうかに表れます。
参考資料:
- 事業主が職場における顧客等の言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針
- カスタマーハラスメント対策企業マニュアル
- 「職場のハラスメントに関する実態調査」の報告書を公表します
- 広報誌「厚生労働」2024年12月号 特集
- 従業員を守るために ― カスタマーハラスメント対策の新ルール
- 安心して働ける職場へ ― ハラスメント対策の強化で何が変わる?
- カスタマーハラスメントへの取り組み|全国警備業協会
- 警備業界におけるカスタマーハラスメントに対する基本方針
- 第2項 警備業、古物営業及び質屋営業の状況|警察庁
- 警備業における省力化投資促進プラン|警察庁
- 職場におけるハラスメントの防止のために|厚生労働省
- しつこくクレームをつけてくる客への対応は?|厚生労働省
- 業種別カスタマーハラスメント対策企業マニュアル 宅配業編等を作成しました
- 改正障害者差別解消法が施行されました|内閣府
- カスタマーハラスメントに関する条例|地方自治研究機構
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