出版不況下の学研、赤字介護を成長柱に変えた投資判断の核心分析
出版不況が迫った学研の事業転換
学研ホールディングスの変化は、出版会社が介護に手を出した異業種参入ではなく、縮む主力市場から成長市場へ資本を移したポートフォリオ転換です。かつて『学習』『科学』は学研ブランドの象徴でしたが、児童数の減少と雑誌市場の縮小は、同社に事業の再定義を迫りました。
その答えとして育ったのが、サービス付き高齢者向け住宅や認知症グループホームを中心とする医療福祉分野です。2025年9月期の連結売上高は1,991億円、医療福祉分野の売上は869億円規模に達しました。単純計算で全社売上の4割強を占める水準です。
重要なのは、介護事業が最初から優等生だったわけではない点です。初期のココファンは赤字に苦しみ、撤退論も出たとされます。それでも学研は本社ビル流動化や事業再編で財務余力を作り、高齢化という不可逆の需要に賭けました。財務の視点で見ると、この大勝負は「教育会社の迷走」ではなく、資産と人材とブランドを組み替えた資本配分の実験でした。
看板誌休刊と資産流動化の財務的意味
670万部から休刊へ向かった需要変化
学研の黄金期を支えたのは、家庭に直接届く学年別教材の強さでした。学研自身の復刻コンテンツ紹介では、『科学』と『学習』は最盛期の1979年に12誌合算で月670万部を記録したとされています。これは、出版物でありながら教育サービスに近い接点を家庭に持っていたことを示します。
しかし、そのモデルは少子化と流通環境の変化に弱い構造でもありました。学研は2009年、1946年創刊の『学習』と1957年創刊の『科学』について、児童数の減少やニーズ多様化による部数減少を理由に休刊を発表しました。『学習』は2010年1月発行号、『科学』は2010年3月発行号を最後に休刊となりました。
この休刊は、単なる一雑誌の終わりではありません。学研にとっては、戦後の教育需要を大量部数で取り込む時代が終わり、顧客接点を別の形で作り直す必要があるというサインでした。出版市場全体でも紙の構造不況は続き、2025年の紙と電子を合わせた出版市場は前年比1.6%減の1兆5,462億円、紙の出版物は9,647億円と1兆円を割り込みました。特に雑誌は減少が大きく、かつての学年誌モデルに戻る選択肢は現実的ではありません。
一方で、学研の教育コンテンツそのものが価値を失ったわけではありません。看護師向けeラーニング、学習参考書、オンライン英会話、保育・幼児領域など、知識を体系化して届ける力は残りました。問題は、紙の雑誌を中心にした収益モデルの耐久性でした。そこから見ると、介護事業への投資は「出版を捨てた」のではなく、教育で培った信頼と運営ノウハウを、別の社会課題に振り向けた判断です。
学研ビル流動化が作った投資余力
事業転換には、理念だけでなく資金が必要です。学研は2008年5月、五反田新本社ビルの土地・建物を三井住友ファイナンス&リースに譲渡する固定資産流動化を決議しました。帳簿価額147億円に対し譲渡価額は242億円で、2009年3月期に約90億円の売却益が発生する見込みと開示されています。
この取引の意味は大きく分けて二つあります。第一に、バランスシート上の固定資産を現金化し、財務体質を改善したことです。出版不況下で新規事業に投資するには、既存資産を寝かせたままでは動けません。資産の流動化は、守りの財務改善であると同時に、攻めの資本配分を可能にする手段でした。
第二に、本社機能を保有不動産の価値から切り離したことです。本社ビルの所有は企業の象徴になりがちですが、成長投資の原資を考えるなら、事業収益を生まない資産をどこまで持つべきかが問われます。学研の場合、売却後も賃借を通じて本社機能を維持しながら、資本を教育、塾、医療福祉などの事業へ回す余地を作りました。
会計的には、売却益は一過性利益です。したがって、それ自体が企業価値を継続的に押し上げるわけではありません。重要なのは、その後に何へ投資したかです。学研は持株会社化、教育事業の再編、塾事業のM&A、介護・子育て支援の拠点拡大を進めました。つまり、資産売却は「苦しいから売った」で終わらず、事業ポートフォリオを入れ替える起点になりました。
赤字介護を成長柱に変えた事業設計
高齢者住宅への絞り込みと現場標準化
学研ココファンは2004年に設立されました。当初は介護関連用品、カタログ販売、訪問介護など複数の周辺事業を抱え、収益の柱が見えにくい状態だったと、同社の20周年企画でも振り返られています。初期の赤字は、需要がなかったというより、事業の焦点と運営体制が定まっていなかったことに起因します。
転機は、高齢者向け住宅に絞り込んだことです。住宅は初期投資と入居率リスクを伴いますが、いったん稼働率が安定すれば、月額収入と介護サービス収入が積み上がります。単発の出版販売よりも、継続課金に近いLTV型の事業です。学研が教育で持っていた家庭との信頼接点は、高齢者の住まい選びという高関与サービスにも転用しやすい資産でした。
さらに、施設運営は標準化の余地が大きい分野です。入居募集、職員配置、ケア品質、地域連携、家族対応を拠点ごとに属人化させると、拡大するほど赤字が増えます。逆に、運営ノウハウを形式知化し、エリア管理や教育研修に落とし込めば、拠点数の増加が利益に結びつきます。学研ココファンの沿革には、2010年の複合拠点「ココファン日吉」、2012年のユーミーケア株式取得、2015年のナーシング設立、2017年の人材養成事業開始が並びます。これは住まい単体から、看護、人材、子育て支援まで広げる布石です。
財務分析で見ると、この段階の勝負は売上規模ではなく、損益分岐点管理でした。介護住宅は固定費が先に出るため、開設直後は赤字になりやすい構造です。入居率の上昇速度、採用費、人件費、食材費、水光熱費を管理できなければ、拠点拡大は損失拡大になります。初期の学研はまさにその罠に直面しましたが、事業を絞り込み、現場管理を整えたことで、拡大可能な型を作りました。
入居率が支える低利幅ビジネスの安定性
介護事業の特徴は、売上規模が大きくなっても利益率が極端に高くなりにくいことです。人手を多く使い、介護報酬や公的制度の影響を受け、食材費や光熱費の上昇も直接効きます。したがって、学研の介護転換を評価する際は、売上成長だけでなく、入居率とEBITDAの安定性を見る必要があります。
2026年9月期第3四半期の決算説明資料では、医療福祉分野の売上高は705.5億円でした。このうち高齢者住宅事業が372.4億円、認知症グループホーム事業が333.0億円です。入居率は高齢者住宅で95.6%、認知症グループホームで98.0%と開示されています。施設型ビジネスでは、この水準の入居率が収益の土台になります。
同じ資料では、医療福祉分野のEBITDAは37.9億円、EBITDAマージンは5.4%です。教育コンテンツのような高い粗利を期待する事業ではありませんが、需要の底堅さと継続収入が魅力です。出版市場が景気やヒット作に左右される一方、介護需要は人口構造に支えられます。内閣府の高齢社会白書は日本の高齢化率を29.3%と示しており、厚生労働省は介護職員について2040年度に約272万人が必要になると推計しています。
学研の中期経営計画「Gakken 2027」でも、医療福祉分野は2027年9月期に売上1,000億円、EBITDA64億円を目指す領域として位置づけられています。高齢者住宅では新設棟数、室数、入居率、介護事業以外の売上比率がKPIに置かれています。これは、単に施設を増やすだけでなく、在宅介護、介護周辺、ウェルネス、ライフエンディングなどへ収益源を広げる戦略です。
ここに学研らしさがあります。教育会社としての強みは、教材を作ることだけではありません。人を育てる仕組み、現場に知識を届ける仕組み、保護者や家族の不安を言語化する仕組みです。介護は職員教育と家族対応の品質が差別化要因になります。学研が赤字事業を残した理由は、将来市場が大きいからだけでなく、自社の組織能力を移植できる余地を見たためです。
介護拡大に残る人材と制度の制約
学研の介護転換は成功例として語れますが、今後のリスクは軽くありません。最も大きいのは人材です。厚生労働省の推計では、2022年度の介護職員215万人に対し、2040年度には約272万人が必要です。業界全体で人材獲得競争が強まれば、学研の標準化や教育研修だけでは吸収できない賃金上昇圧力がかかります。
制度リスクもあります。介護報酬は公的制度に左右されるため、価格決定の自由度は一般サービス業より低い構造です。学研は2025年9月期に価格改定効果で医療福祉分野の増収増益を確保しましたが、値上げ余地には利用者負担と制度上の制約があります。食材費、水光熱費、建築コストの高騰は、2026年9月期第3四半期資料でもネガティブ要素として示されています。
もう一つの論点は、拠点拡大の質です。サービス付き高齢者向け住宅は2025年3月末で8,334件、290,128戸が登録されており、市場はすでに一定の規模にあります。高齢化が追い風でも、地域ごとの需給、採用難、医療連携、競合施設との差別化に失敗すれば、入居率は落ちます。学研の現在の強みは高い入居率ですが、これは将来も自動的に維持される指標ではありません。
投資家にとっては、介護事業を「安定成長」とだけ見るのは危険です。むしろ、低い利幅を高入居率と拠点運営力で補うビジネスとして評価すべきです。売上が伸びてもEBITDAマージンが低下するなら、建築費や人件費を価格に転嫁できていない可能性があります。逆に、介護周辺サービスの比率が上がり、施設介護以外の収益が増えれば、制度依存度を下げる効果が期待できます。
投資家が注視すべき次の財務指標
学研の大勝負の顛末は、現時点では「赤字の種を成長柱に変えた」と評価できます。2025年9月期の連結売上高1,991億円、営業利益82.3億円、医療福祉分野869億円という数字は、介護がもはや周辺事業ではないことを示しています。2026年9月期第3四半期も、医療福祉とグローバルが増収を牽引し、連結売上高は前年同期比6.3%増でした。
ただし、次に問われるのは規模ではなく質です。投資家が見るべき指標は三つあります。第一に高齢者住宅と認知症グループホームの入居率です。第二に医療福祉分野のEBITDAマージンです。第三に介護周辺、在宅、ウェルネス、人材養成など、施設介護以外の売上比率です。
出版不況で守りに入るのではなく、固定資産を流動化し、赤字事業を絞り込み、人口動態に沿った市場へ資本を移した点に、学研の経営判断の核心があります。これからの焦点は、介護を「第二の看板」にできるかではなく、教育と医療福祉を横断する生活インフラ企業として、低利幅の事業を持続的に高稼働で回せるかです。
参考資料:
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