kinyukeizai.com

kinyukeizai.com

朝ドラ「ばけばけ」神戸でハーンが絶望した背景

by kinyukeizai.com
URLをコピーしました

はじめに

NHK連続テレビ小説「ばけばけ」が放送中です。「耳なし芳一」「雪女」などの名作怪談で知られるラフカディオ・ハーン(小泉八雲)と、妻セツの物語が多くの視聴者を引きつけています。

ハーンは1890年に来日し、松江で「古き良き日本」に深く魅了されました。その後、熊本を経て1894年に念願の神戸へ移住します。しかし、開港都市として急速に西洋化が進む神戸の姿は、彼が愛した日本とはかけ離れたものでした。

この記事では、ハーンが神戸で直面した「絶望」の背景と、そこから生まれた人生の大きな転機について詳しく解説します。

ハーンが愛した「古き日本」と松江での日々

夢のような国への渡航

ラフカディオ・ハーンは1850年、ギリシャのレフカダ島に生まれました。アイルランド人の父とギリシャ人の母を持つ彼は、幼少期から波乱に満ちた人生を送ります。16歳の時に学校での事故で左目を失明するという悲劇にも見舞われました。

アメリカでジャーナリストとして活躍していたハーンは、友人の女性記者エリザベス・ビスランドから「日本は美しく、人々は文明社会に汚されておらず、夢のような国だ」と聞かされます。この言葉に心を動かされ、1890年、40歳で日本への渡航を決意しました。

松江で見つけた理想の日本

来日後、島根県松江の尋常中学校で英語教師となったハーンは、この地で運命的な出会いを果たします。没落士族の娘・小泉セツです。セツはやがてハーンの妻となり、日本各地の怪談や民話を語って聞かせる存在になります。

松江にはまだ古い日本の面影が色濃く残っていました。神社仏閣が点在し、人々は伝統的な暮らしを営んでいます。ハーンはこの土地に深く魅了され、後に『知られぬ日本の面影』として作品にまとめました。彼にとって松江は、理想の日本そのものだったのです。

熊本での失望が神戸移住の布石に

「兵舎のような校舎」への幻滅

1891年11月、ハーンは熊本の第五高等中学校(現・熊本大学)に赴任します。松江の倍となる月俸200円という好待遇が理由でした。しかし、熊本に到着した彼を待っていたのは、想像とは異なる光景です。

西南戦争後の復興を経た熊本は、急速に近代化が進んでいました。赤煉瓦の校舎を見たハーンは「兵舎と同じだ」と感じ、友人への手紙に「宗教的に見ておもしろくない土地」と書き送っています。松江で感じた精神的な豊かさが、熊本には見出せなかったのです。

家族への深い愛情と葛藤

一方で、この時期のハーンは家庭に深い愛情を注いでいました。1893年2月、親友のエルウッド・ヘンドリックに宛てた手紙には、こう記されています。

「私は自分の家に11人の小さな世界を持っています。この人たちにとって、私は愛であり、光であり、命の糧なのです」

セツの家族も含めた大家族を養う責任を感じながら、ハーンは理想と現実の間で揺れ動いていました。熊本での約3年間は、彼にとって日本の近代化と向き合う葛藤の時期だったのです。

念願の神戸移住と直面した「絶望」

開港都市・神戸の現実

1894年10月、ハーンは熊本を離れ、英字新聞「神戸クロニクル」(後のジャパン・クロニクル)の記者として神戸に移住します。神戸は国際的な開港都市であり、外国人居留地を擁する街です。

しかし、ハーンが神戸で目にしたのは、彼が愛した日本とは正反対の風景でした。イギリス人技師J.W.ハートが設計した126区画の居留地は、「東洋一美しい」と称されるほど整然とした西洋式の街並みです。街にはレンガ造りの洋館が立ち並び、西洋式のビジネスが活発に行われていました。

ハーンは「古来の、素朴で健康な、自然な、節制心のある、正直な生き方を放棄する危険性」を強く感じていました。日本が西欧の模倣に走ることを嫌い、開港地の空気に馴染めなかったのです。

わずか2カ月での退職

神戸クロニクルでの記者生活は、ハーンにとって苦痛を伴うものでした。すでに左目を失明していた彼にとって、大量の文字を読み書きする新聞記者の仕事は目に大きな負担をかけます。医師からも目への悪影響を指摘され、わずか約2カ月で記者職を退くことになりました。

視力の問題に加え、西洋化した神戸の街そのものが、ハーンの精神に重くのしかかっていたと考えられます。彼はかつて「日本がその素朴さを保持する限りは、強固であるだろう。日本が舶来の贅沢という思想を取り込んだ時は、弱くなるだろう」と述べています。神戸はまさに、その「舶来の贅沢」が最も顕著に現れた街だったのです。

絶望から生まれた人生の転機

日本国籍の取得と「小泉八雲」の誕生

しかし、神戸での絶望は、ハーンに大きな転機をもたらしました。家族の将来を真剣に考えた彼は、1896年2月10日、日本に帰化することを決断します。セツの家に入夫婚姻し、「小泉八雲」と名乗るようになりました。

「八雲」の名は、出雲国にかかる枕詞「八雲立つ」に由来します。松江で出会った古き日本への愛着が、この名前に込められているのです。外国人としての不安定な立場を捨て、日本人として家族を守る道を選んだハーンの覚悟が伝わります。

東京帝国大学への転身

1896年9月、小泉八雲となったハーンは東京帝国大学文科大学の英文学講師に就任し、上京します。ここでの講義は学生たちに深い感銘を与え、後に夏目漱石が後任を務めることでも知られています。

神戸での約2年間は、ハーンにとって決して無駄な時間ではありませんでした。記者を退いた後も「心」「佛の畑の落穂」などの作品を執筆し、日本文化の本質を探求し続けました。西洋化への絶望が、かえって彼の日本理解を深め、後の名作「怪談」の土台を築いたのです。

注意点・展望

朝ドラ「ばけばけ」での描かれ方

NHK朝ドラ「ばけばけ」では、物語の約7割が松江を舞台に展開されています。ハーンの神戸時代については詳しく描かれていない部分もあるとされます。ドラマはあくまでフィクションであり、実際の歴史とは異なる脚色が加えられている点には注意が必要です。

ハーンが現代に問いかけるもの

ハーンが130年前に感じた「西洋化への危機感」は、現代のグローバル化にも通じるテーマです。急速な変化の中で失われゆく伝統文化をどう守るか。異文化に触れながら自国のアイデンティティをどう保つか。ハーンの苦悩は、今なお私たちに問いを投げかけています。

まとめ

ラフカディオ・ハーンが神戸で味わった「絶望」は、松江で見つけた理想の日本が急速に失われていく現実への悲しみでした。開港都市として西洋化が進む神戸の街、左目を失った身での過酷な記者生活。これらの困難が重なり、ハーンは大きな苦悩を抱えることになります。

しかし、この絶望こそが日本への帰化という決断を後押しし、「小泉八雲」という日本文学史に残る存在を生み出しました。朝ドラ「ばけばけ」をきっかけに、ハーンの複雑な日本観に触れてみてはいかがでしょうか。

参考資料:

最新ニュース