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小泉八雲が嫌いな東京に住み続けた理由を探る

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はじめに

NHK連続テレビ小説「ばけばけ」が2026年3月27日に最終回を迎えます。小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)と妻セツの物語を描いた本作は、明治時代に日本文化の美しさを世界に伝えた外国人作家への関心を大きく高めました。

八雲は松江の古い町並みや人々の素朴さを深く愛した人物です。一方で、急速な西洋化が進む東京については「歌川広重の描いた江戸絵のようなところだと誤解している」と妻に語るほど、強い幻滅を抱いていました。それにもかかわらず、八雲は東京に約8年間住み続け、代表作『怪談』をはじめとする重要な著作をこの地で書き上げました。なぜ八雲は「嫌いな街」に住み続けたのでしょうか。

ハーンが東京を嫌った理由

「古い日本」の消滅への嘆き

ラフカディオ・ハーンは1890年に40歳で来日し、島根県松江の尋常中学校で教鞭を執りました。松江での生活は、ハーンにとって理想の日本との出会いでした。古い神社仏閣、素朴な人々の暮らし、口伝えで受け継がれる怪談や民話。ハーンが愛したのは、庶民生活の中にある「単純、善良、素朴さ」だったのです。

しかし、松江の厳しい冬に耐えかねたハーンは、1年3カ月で再び移動を始めます。熊本、神戸を経て、1896年に東京へ。そこで目にしたのは、文明開化と西洋化に邁進する「新しい日本」でした。ハーンは東京への移住時に妻セツに「3年以上の我慢は難しい」と告げたといいます。

西洋化への鋭い批判

ハーンが東京を嫌った理由は、単なる好みの問題ではありませんでした。明治政府が推し進める急速な西洋化によって、日本固有の文化や精神性が失われていくことへの深い危機感があったのです。

ハーンは熊本以降の生活で、松江では感じられなかった「文明開化と軍国主義に邁進する、謙虚さを失った日本」に出会いました。西洋から来た人間でありながら、日本が西洋を模倣することに批判的だったハーンの姿勢は、当時としては極めて独特なものでした。

それでも東京に住み続けた理由

東京帝国大学という知的拠点

ハーンが東京に移った最大の理由は、東京帝国大学文科大学の英文学講師への就任でした。1896年9月に着任したハーンの講義は、進化論や社会批評を土台に文学の芸術的な味わいを伝える革新的な内容で、学生たちから絶大な人気を博しました。

帝国大学での教職は、ハーンにとって経済的な基盤であると同時に、知的な刺激を得る場でもありました。優秀な学生たちとの交流は、日本文化への理解をさらに深める機会となったのです。後にハーンが帝大を退職する際には、学生たちによる大規模な留任運動が起こったほどでした。

セツという「語り部」の存在

ハーンの創作活動を支えたのは、妻・小泉セツの存在です。セツは出雲地方で幼い頃から聞いてきた昔話や怪談を、八雲に語って聞かせました。セツの語りは、ハーンの代表作『怪談』『影』『骨董』などの重要な創作源泉となっています。

nippon.comの記事によれば、セツは単なる語り部にとどまらず、ハーンの日本理解を深める「文化の翻訳者」としての役割を果たしました。東京での生活は不本意だったかもしれませんが、セツとの共同作業が最も実を結んだのは、まさにこの東京時代だったのです。

東京の中に見つけた「古い日本」

興味深いことに、ハーンは西洋化が進む東京の中にも、古い日本の面影を見出していました。新宿区富久町に住んでいた頃、隣接する自証院(瘤寺)をよく散歩し、東隣の道林寺の住職から聞いた話を作品に活かしています。

また、早稲田南町にある宗参寺の墓地は、『怪談』に収められた「虫の研究」の舞台になりました。八雲は都市の片隅に残る寺社や墓地、路地裏の風景の中に、失われゆく日本の精神性を見出す独自の感性を持っていたのです。

東京帝大の退職と晩年

夏目漱石への交代

1903年、ハーンに転機が訪れます。東京帝国大学から契約を更新しない旨の通知が届いたのです。背景には、ハーンを帝大に招聘した外山正一が1900年に亡くなったことがありました。また、ハーン自身が講師という身分に不満を抱いていたことも影響していたとされています。

学生たちの留任運動にもかかわらず、ハーンは帝大を去りました。後任として着任したのが、ロンドン留学から帰国したばかりの夏目漱石です。奇しくも、日本文学史に名を刻む二人の文学者が、同じ講座をつなぐことになりました。

早稲田大学での最後の日々

帝大を退職したハーンは、早稲田大学の講師として教壇に立ちました。当時の帝大での年収が現在の価値で約1億9200万円だったのに対し、早稲田での報酬は約8000万円だったとされています。大幅な収入減にもかかわらず、ハーンは教育と執筆への情熱を失いませんでした。

しかし1904年9月26日、ハーンは狭心症のため54歳で急逝します。東京での約8年間は、ハーンの文学活動が最も充実した時期でした。「嫌いな街」は結果的に、彼の代表作が生まれた場所となったのです。

注意点・展望

朝ドラが照らす八雲の現代的意義

NHK朝ドラ「ばけばけ」は、髙石あかりが小泉セツをモデルにした松野トキを、トミー・バストウがハーンをモデルにしたレフカダ・ヘブンを演じ、大きな話題を呼びました。ドラマの影響で、松江の小泉八雲記念館をはじめとする関連施設への関心も高まっています。

グローバル化とデジタル化が急速に進む現代において、ハーンが120年前に抱いた問いは、驚くほど今日的です。伝統文化と近代化をどう両立させるか。異なる文化をどう理解し、尊重し合うか。ハーンの生き方と作品は、現代の私たちにも多くの示唆を与えてくれます。

「外からの目」が捉えた日本

ハーンの功績は、外国人ならではの視点で日本文化の本質を捉え、世界に発信したことにあります。日本人が当たり前すぎて気づかない文化的価値を、ハーンは鋭い感性で見抜きました。この「外からの目」の重要性は、多文化共生が求められる現代社会においても変わりません。

まとめ

ラフカディオ・ハーンが「嫌いな東京」に住み続けた理由は、単純な一つの答えに収まりません。帝国大学での教職、妻セツとの共同作業、そして東京の片隅に見出した「古い日本」の断片。これらが複合的に作用し、ハーンを東京に引き留めました。

結果として東京時代は、『怪談』をはじめとする代表作を生み出したハーンの最も実り多い時期となりました。嫌いな場所にこそ創造の源泉がある。ハーンの東京生活は、そんな逆説的な真実を私たちに教えてくれます。

参考資料:

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