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キオクシア発EmotionXが挑む「秘密計算」AI後の巨大市場

by 白石 葵
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はじめに

AI技術の急速な普及に伴い、企業が保有するデータの活用と保護をいかに両立させるかが世界的な課題となっています。個人情報や機密データを暗号化したまま計算処理できる「秘密計算」技術は、この難題を解決する切り札として注目を集めています。

その最前線に立つのが、NAND型フラッシュメモリ大手のキオクシアホールディングスから2025年にカーブアウト(分離独立)した秘密計算スタートアップ、EmotionX(エモーションX)です。同社は2026年5月にプライバシークラウドサービスの事業を開始し、金融機関や防衛関連企業への展開を進めています。

本記事では、EmotionXの技術的な強みとビジネスモデルを整理したうえで、Intel、Samsung、フランスのZamaなど欧米韓メーカーが本格参入する開発競争の構図と、秘密計算が「AIの次」と呼ばれる理由を解説します。

EmotionXの事業モデルと技術的な優位性

キオクシアの研究所で育まれたFHE技術

EmotionXの中核技術は、完全準同型暗号(FHE: Fully Homomorphic Encryption)と呼ばれる暗号方式です。FHEはデータを暗号化した状態のまま加算・乗算といった演算を実行でき、処理の過程で一切復号する必要がありません。従来のデータ活用では、分析のために暗号を解除する段階で情報漏洩のリスクが生じていました。FHEはこの構造的なリスクを根本から排除する技術です。

この技術はもともとキオクシアの先端技術研究所で研究が進められていました。FHEでは暗号化されたデータが平文と比べて数百倍から数千倍に膨張するため、処理には大容量のストレージが必要になります。キオクシアにとっては、FHEの普及がNAND型フラッシュメモリの需要拡大に直結するという戦略的な合理性があり、社内での研究開発が進められてきた背景があります。

カーブアウトの狙いと事業化への道筋

2025年、キオクシアはFHE技術の事業化を加速するため、研究成果をEmotionXとして分社化しました。大企業の研究所に留まるよりも、スタートアップとして機動的に意思決定し、外部パートナーとの連携や資金調達を柔軟に行える体制を構築する狙いがあります。

2026年3月にはキオクシアからの出資が実行され、親会社との資本関係を維持しながら独立した経営を行う体制が整いました。EmotionXは同年5月にプライバシークラウドサービスの提供を開始し、金融機関、製造業、防衛関連企業、ライフサイエンス、宇宙産業、行政機関など、高度な機密性が求められる分野をターゲットとしています。

EAGLYSとの共同開発による垂直統合戦略

EmotionXの戦略でとりわけ注目すべきは、秘密計算スタートアップのEAGLYS(イーグリス)との共同開発契約です。2026年2月に締結されたこの契約は、キオクシア時代に蓄積されたFHE高速化の研究成果を引き継ぐ形で進められています。

役割分担は明確です。EAGLYSは秘密計算アプリケーションとソフトウェア技術を担い、EmotionXはFHEの高速化に必要なハードウェア技術を提供します。この組み合わせにより、アプリケーション層からアルゴリズム、半導体技術に至るまでの垂直統合を実現し、暗号化データ上でのAI処理を実用的な速度で動かすことを目指しています。

SaaSビジネスの文脈で捉えると、EmotionXは「インフラ+プラットフォーム」を一体で提供するモデルに近いといえます。ハードウェア加速という参入障壁の高い技術をコアに据え、クラウドサービスとして提供する点が、ソフトウェアのみで差別化を図る競合との違いです。

世界で加速する秘密計算の開発競争

米国:DARPAと大手テック企業の連携

秘密計算の開発競争で先行するのは米国です。米国防高等研究計画局(DARPA)は「DPRIVE(Data Protection in Virtual Environments)」プログラムを通じて、FHEの実用化を国家レベルで推進しています。

このプログラムにはIntelとMicrosoftが参画しており、Intelは「HERACLES」と名付けたFHE専用アクセラレータの開発をフェーズ2まで進めています。従来のCPUでは暗号化データの処理に膨大な時間がかかりますが、専用チップによる高速化でこのボトルネックを解消しようという試みです。

ソフトウェア側では、フランス発のスタートアップZamaが存在感を高めています。同社は2024年3月に7,300万ドルの資金を調達し、2025年6月には評価額10億ドルに到達して世界初のFHEユニコーン企業となりました。オープンソースのFHEコンパイラ「Concrete」を提供し、ブロックチェーン分野での秘密計算基盤として広く採用されています。ZamaのロードマップではGPUへの移行を2026年に進め、2027年から2028年にかけて専用ASICによる大幅な性能向上を計画しています。

韓国:Samsung陣営のハードウェア攻勢

韓国勢も秘密計算分野で積極的な動きを見せています。Samsung SDSは2018年から準同型暗号の研究に着手し、国際的なゲノム解析コンペティション「iDASH」で1位タイの成績を収めるなど、技術力を証明しています。

ハードウェア面では、ブラジル発のスタートアップNiobiumが注目されています。同社は韓国のASIC設計企業SEMIFIVEと提携し、Samsung Foundryの8nmプロセスで世界初の商用FHEアクセラレータASICの開発を進めています。開発契約は約100億ウォン(約686万ドル)規模とされ、2026年2月に発表されました。このチップはクラウドおよびAIワークロード向けに、暗号化データの処理速度を実用レベルまで引き上げることを目指しています。

さらに、ソウル大学発のCryptoLabが開発する準同型暗号ライブラリ「HEaaN」は、Samsung Electronicsのスマートssd向け暗号化演算ハードウェアにも採用されており、韓国ではアカデミアと産業界の連携が進んでいます。

日本の先行プレイヤーとEmotionXの立ち位置

日本国内では、EmotionXの共同開発パートナーであるEAGLYSが秘密計算分野の先駆者です。2016年に設立された同社は、秘密計算プラットフォーム「DataArmor」を提供し、三井物産とのPoC(概念実証)やJR東日本とのパーソナルデータ連携など、大企業との協業実績を積み上げています。

名古屋大学発のAcompanyも有力なプレイヤーです。「Confidential AI Suite」を展開する同社は、2025年5月のシリーズBラウンドで約11億円を調達し、2026年にはベンチャーデットで9.6億円を確保するなど、累計調達額は22億5,000万円に達しています。

この構図の中で、EmotionXはハードウェア加速技術に特化したユニークなポジションを占めています。EAGLYSがソフトウェア、Acompanyがプライバシー保護プラットフォームに軸足を置く一方、EmotionXは半導体メーカー出身ならではのハードウェア技術を武器にしており、日本の秘密計算エコシステムにおいて相互補完的な役割を果たしています。

秘密計算の市場規模と広がるユースケース

急成長が見込まれる市場

FHE市場の成長予測は強気です。調査会社の推計によると、世界のFHE市場規模は2024年時点で約1億2,500万ドルですが、2032年には約13億5,700万ドルに達するとされ、年平均成長率(CAGR)は34.78%と予測されています。AI時代のデータ保護ニーズの高まりが、この急成長を支える原動力です。

金融・医療・防衛で進む実用化

秘密計算のユースケースは具体化が進んでいます。金融分野では、複数のクレジットカード会社が各社の不正利用データを暗号化したまま突合・分析するプロジェクトが進行中です。従来は個人情報保護の観点から企業間でのデータ共有が困難でしたが、秘密計算を用いることで、生データを相手に開示せずに分析結果だけを得ることが可能になります。

医療分野では、複数の医療機関が保有する診療データを暗号化した状態でAI解析する取り組みが始まっています。臨床評価指標(QI)の向上や創薬研究において、患者のプライバシーを守りながらビッグデータを活用できる点が評価されています。

防衛・行政分野では、内閣府の戦略的イノベーション創造プログラム(SIP)が「プライバシーを保護しつつデータ解析ができる秘密計算の活用」をテーマに掲げ、官民連携の研究開発を推進しています。国家安全保障に関わる機密データの分析においても、秘密計算の導入が検討されています。

キオクシアにとってのストレージ需要

EmotionXの事業化は、キオクシア本体にとっても戦略的な意味を持ちます。FHEでは暗号化されたデータが平文の数百倍に膨れ上がるため、演算に必要なストレージ容量は桁違いに大きくなります。秘密計算の普及が進めば、NAND型フラッシュメモリの需要は新たな成長曲線を描く可能性があります。キオクシアがEmotionXに出資し続ける背景には、半導体メーカーとしてのこうした長期的な市場拡大の思惑が存在します。

注意点・展望

実用化の最大の壁は「処理速度」

秘密計算の社会実装を阻む最大の課題は、依然として処理速度です。FHEによる演算は、平文での処理と比較して数百倍から数千倍の計算コストがかかります。高速化の研究が進んだ現在でも、小規模なAIモデルで平文比2倍から5倍、大規模モデルでは10倍から20倍の処理時間を要するとされています。

この課題に対して、GPU、FPGA、専用ASICといったハードウェア加速のアプローチが各社で進められています。EmotionXがハードウェア技術を強みとしている点は、まさにこのボトルネックの解消を目指したものです。

今後の見通しと競争のゆくえ

2026年はFHE実用化の転換点になるとみられています。Zamaを含む複数のプレイヤーがGPUベースの高速化を投入し、Niobiumの専用ASICも開発が進んでいます。2027年から2028年にかけて専用チップが量産段階に入れば、秘密計算の処理コストは大幅に低下し、適用可能な業務領域が一気に広がる可能性があります。

日本では個人情報保護法の見直しにおいて、AI開発や統計作成を目的としたデータ提供に関する規制緩和の議論が進んでおり、秘密計算の需要を後押しする政策環境も整いつつあります。

まとめ

キオクシアからカーブアウトしたEmotionXは、ハードウェア加速という独自の技術的強みを武器に、秘密計算市場への本格参入を果たしました。EAGLYSとの垂直統合型の共同開発は、ソフトウェアのみで勝負する海外勢とは異なるアプローチとして注目に値します。

ただし、IntelのDARPAプログラム、Zamaのオープンソース戦略、Samsung陣営のASIC開発など、欧米韓勢の競争力は強力です。年平均成長率35%近い急成長市場で日本勢がどこまで存在感を示せるかは、処理速度のブレイクスルーと具体的なユースケースの積み上げにかかっています。

秘密計算は「AIの次」を担うインフラ技術として、データ活用のあり方そのものを変える可能性を秘めています。今後の技術動向と市場の変化を引き続き注視する必要があるでしょう。

参考資料:

白石 葵

SaaS・DXスタートアップ

SaaS企業やDXスタートアップを、同世代の目線から取材。プロダクトの仕組みとビジネスモデルの両面から新興企業の実力を見極める。

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