SNS時代の「言論の軍拡競争」分極化と認知戦が問う日本の課題
はじめに
SNSの普及により、誰もが情報の発信者になれる時代が到来した。しかしその裏で、私たちの言論空間には深刻な歪みが生じています。右派は左派を、左派は右派を、それぞれが「脳内の敵」として攻撃し合い、建設的な対話が成立しにくい状況が常態化しつつあります。
軍事研究者の小泉悠・東京大学先端科学技術研究センター准教授は、こうした現象を「言論の軍拡競争」と表現しています。これは単なるネット上の口喧嘩ではありません。国家間の情報戦や認知戦と地続きの問題であり、日本の安全保障にも直結するテーマです。
本記事では、SNSが加速させる言論の分極化メカニズムと、認知戦という新たな脅威の実態を、技術的な仕組みと安全保障の両面から解説します。
「言論の軍拡競争」が意味するもの
SNSが生み出す「脳内の敵」
「言論の軍拡競争」とは、対話の相手を実際の主張ではなく、自分の頭の中で作り上げた「敵」のイメージに基づいて攻撃し合う現象です。右派論者は左派を「お花畑の平和主義者」と決めつけ、左派論者は右派を「戦争好きの軍国主義者」とレッテルを貼る。実際の議論の中身に向き合うことなく、互いにステレオタイプ化した相手を叩き続ける構図が生まれています。
この問題が深刻なのは、双方が「自分こそが正しい」と確信しながらエスカレートしていく点にあります。軍拡競争と同じく、一方が攻撃的なトーンを強めれば、もう一方もさらに強い言葉で応じる。こうして言論のトーンが際限なく先鋭化していきます。
小泉氏は『小泉悠が護憲派と語り合う安全保障』(かもがわ出版、2025年)において、安全保障を巡る議論でも左右の対話が成立しにくい現状に警鐘を鳴らしています。憲法9条の改正に前向きな立場でありながら、護憲派との対話を試みた同書は、言論空間における分断を乗り越えようとする姿勢そのものが注目されました。
エコーチェンバーとフィルターバブルの技術的構造
こうした分極化の背景には、SNSプラットフォームの技術的な設計が深く関わっています。「エコーチェンバー現象」とは、同じ価値観を持つ人々の間で情報が反響し合い、特定の意見が増幅される状態を指します。さらに「フィルターバブル」と呼ばれるアルゴリズムによる情報選別が加わることで、ユーザーは自分の既存の信念を強化する情報ばかりに接触するようになります。
SNSのレコメンドアルゴリズムは、ユーザーのエンゲージメントを最大化するように設計されています。怒りや対立を煽るコンテンツほど「いいね」やリプライを集めやすいため、結果として極端な意見が優先的に表示される傾向があります。東京新聞の報道によれば、小泉氏はSNSの「いいね」が兵器になり得ると指摘し、人々の認知を操作するツールとして機能するリスクを警告しています。
技術的には、ユーザーの「いいね」履歴やクリック行動をAIが解析し、政治的傾向を推定したうえでターゲティングされた情報を表示する仕組みが確立しています。これにより、異なる意見に触れる機会が構造的に減少し、対話の可能性がますます狭まっているのです。
認知戦という新たな安全保障上の脅威
「人の脳が戦場」になる時代
認知戦(Cognitive Warfare)とは、NATOの定義によれば「個人・集団・国民の認知に影響を与え、保護し、または混乱させることで優位性を得る活動」を指します。従来の軍事作戦が物理的な戦場で行われるのに対し、認知戦の戦場は人間の「脳」そのものです。
小泉氏は東京新聞のインタビューで「人の脳が戦場になる」と解説し、認知戦の本質は「社会の中で対話を不可能にすること」にあると述べています。つまり、先に述べた「言論の軍拡競争」は、外国勢力による認知戦の格好の土壌となり得るのです。社会が自ら分断を深めていれば、外部からの工作はわずかな介入で大きな効果を上げることができます。
小泉氏らの共著『偽情報戦争 あなたの頭の中で起こる戦い』(ウェッジ)では、ロシアや中国による情報作戦の実態が詳細に分析されています。同書によれば、ロシアは2010年代から欧米に対する認知戦を本格化させ、SNSを活用した世論操作や偽情報の拡散を組織的に行ってきたとされています。
外国からの影響工作とSNSの脆弱性
日本も認知戦の標的となっています。防衛省は2022年の防衛白書で初めて「認知領域」の重要性に言及し、同年末に改定された安全保障関連3文書では対策強化の方針が示されました。しかし、専門家の間では日本の対応は依然として遅れているとの指摘が根強くあります。
外国勢力による影響工作は、必ずしも「偽」の情報だけを使うわけではありません。事実を切り取って文脈を歪めたり、既存の社会的対立を増幅させたりする手法が多用されます。日本社会にすでに存在する右派と左派の対立構造は、外部からの介入にとって極めて利用しやすい素地となっています。
特に懸念されるのは、生成AIの普及による偽情報の質と量の変化です。AI生成による偽ニュースサイトの数は急増しており、人間が書いた記事との判別がますます困難になっています。日本の防衛費がGDP比2%に迫る中、物理的な防衛力の強化だけでなく、情報空間における防衛能力の構築が急務となっています。
日本の言論空間に起きている変化
選挙を揺るがすSNSの影響力
日本の言論空間の変化は、選挙の場面で最も顕著に表れています。2025年7月の参議院選挙では、投票先を決める際にSNSを参考にした有権者が新聞やテレビを参考にした層を上回るという調査結果が報告されました。情報源としてのSNSの台頭は、良くも悪くも日本の民主主義の姿を変えつつあります。
この選挙では、偽情報や誤情報の拡散も大きな問題となりました。日本ファクトチェックセンターの集計によれば、参院選期間中に確認されたファクトチェック記事は183件に上り、前年の衆院選の34件から5倍超に急増しました。検証対象には不正選挙に関する陰謀論や、候補者に関する根拠のない主張などが含まれていたとされています。
防衛論議における対話の困難
安全保障を巡る議論でも、分極化は深刻な影響を及ぼしています。故・丹羽宇一郎氏(元伊藤忠商事会長・元駐中国大使)は遺著『Z世代は戦後初めて銃をとる世代になるかもしれない』(東洋経済新報社、2026年1月刊)の中で、防衛力強化が進む一方で国民の間に「戦争のリアリティ」が欠如していると警鐘を鳴らしました。
しかし、こうした問題提起に対しても、SNS上では建設的な議論よりもレッテル貼りが先行しがちです。「防衛力強化=戦争準備」と短絡的に批判する声もあれば、「外交重視=軟弱」と切り捨てる声もある。いずれも相手の主張を正確に理解しようとせず、「脳内の敵」を攻撃しているに過ぎません。
紀尾井町戦略研究所が2025年末に実施した世論調査では、非核三原則の見直しについて賛成と反対がそれぞれ約41%と拮抗し、防衛増税には43.5%が反対するなど、国民の意識は一枚岩ではないことが示されています。こうした複雑な世論を前にしてこそ、冷静な対話が求められるのですが、SNS上の「言論の軍拡競争」がそれを阻んでいるのが現状です。
注意点・展望
分極化を乗り越えるために必要な視点
「言論の軍拡競争」への対処は、技術的対策と市民のリテラシー向上の両輪で進める必要があります。総務省は2025年、SNS上の偽情報対策として業界団体の行動規範策定を支援する方針を示し、災害時の収益化停止措置なども検討されています。しかし、プラットフォーム規制だけでは根本的な解決にはなりません。
重要なのは、私たち一人ひとりが自分自身のエコーチェンバーの存在に自覚的になることです。英国王立協会の調査では、政治的に偏ったエコーチェンバーに実際にいる人は人口の6〜8%程度と推定されています。つまり、多くの人は極端な分極化の当事者ではないにもかかわらず、SNS上で可視化される極端な意見に引きずられているのです。
認知戦の観点からは、情報の真偽を個人が判断する力だけでなく、社会全体として「対話の回路」を維持することが防衛力の一部であるという認識が求められます。相手を「脳内の敵」に仕立て上げて攻撃する行為は、結果として自国の社会的結束を弱め、外部からの影響工作への脆弱性を高めることになります。
まとめ
SNSが加速させる「言論の軍拡競争」は、日常的なネット上の対立にとどまらず、認知戦という安全保障上の脅威と直結する問題です。右派も左派も、自らが作り上げた「脳内の敵」を攻撃することで、知らず知らずのうちに社会の分断を深めています。
この構造を打破するためには、アルゴリズムによる情報偏向の技術的理解、ファクトチェックの活用、そして何より「自分と異なる意見にも耳を傾ける」という基本姿勢が欠かせません。防衛費の増額や物理的な軍備だけでなく、言論空間の健全性を守ることもまた、現代における重要な「安全保障」のひとつです。
参考資料:
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