退職金廃止で問われる転職時代の賃金改革と中高年不安の企業本音
退職金廃止論が再燃する賃金環境
退職金制度の廃止や縮小が、再び人事改革の論点になっています。背景にあるのは、若手採用競争の激化、継続的な賃上げ圧力、人手不足、そして転職を前提にしたキャリア観の広がりです。企業にとって退職一時金は、長期勤続を促す仕組みである一方、現在の賃金原資を将来に先送りする制度でもあります。
ただし、退職金をなくせば公平になる、という単純な話ではありません。厚生労働省の調査では、退職給付制度がある企業の割合は2023年時点で74.9%です。なお一定規模以上の企業ではなお多数派であり、大学・大学院卒の定年退職者では平均1,896万円という大きな給付額も確認されています。制度改革は、若手には月例賃金の引き上げとして見えやすく、中高年には積み上げてきた権利の削減として映りやすい構造があります。
本稿では、退職金廃止論の本質を「世代対立」ではなく、報酬をいつ、何に対して、どのように支払うかという人材育成とキャリア設計の問題として読み解きます。
企業が退職一時金を見直す採用事情
若手採用に偏る賃金原資
退職金制度の見直しが進む最大の理由は、企業が賃金を後払いにしておく余裕を失っていることです。2026年春季労使交渉では、経団連の大手企業第1回集計で総平均の回答・妥結額が1万9,964円、アップ率が5.46%となりました。連合の第5回回答集計を基にしたJILPTの整理でも、定期昇給相当込みの賃上げ率は5.05%です。
この数字は、企業が賃上げを避けにくい環境に入ったことを示しています。物価上昇への対応だけでなく、採用市場で見劣りしない初任給や若手賃金を示さなければ、人材を確保できないからです。連合の2026春闘第5回集計では、高卒の生産技能職で改定後初任給の平均が20万9,885円、上げ幅は1万2,274円でした。企業は、将来の退職金よりも、入社時点で比較される月例賃金に資金を振り向ける圧力を受けています。
さらに、帝国データバンクの2026年4月調査では、正社員の人手不足を感じる企業が50.6%に達しています。情報サービスなどスキル人材の不足が目立つ業種では、待っていれば応募が来る状況ではありません。若手や専門人材に選ばれるには、入社後数十年先の一時金より、入社直後から見える処遇、学習機会、職務内容の明確さが重要になります。
退職給付の縮小を示す統計
制度全体の動きも、退職金が少しずつ相対的な存在感を落としていることを示しています。厚生労働省の2023年就労条件総合調査では、退職給付制度がある企業の割合は74.9%でした。2018年調査の80.5%から低下しており、財務省の税制調査会資料も「退職給付の導入企業数の割合は全体として減少傾向」と整理しています。
企業規模による差も大きく、1,000人以上では90.1%に退職給付制度がありますが、30〜99人では70.1%です。大企業ではなお標準的な制度である一方、中小企業ではそもそも制度を持たない会社も珍しくありません。転職者が複数の会社を渡り歩く時代には、退職金の有無が会社ごとに大きく違うこと自体が、キャリア選択の不透明要因になります。
退職一時金を持つ企業の支払準備形態を見ると、社内準備が56.5%、中小企業退職金共済制度が42.0%です。退職年金制度がある企業では、企業型確定拠出年金が50.3%、確定給付企業年金が44.3%でした。企業が内部で長期債務を抱える形から、外部制度や個人口座に近い仕組みへ移す流れがうかがえます。
後払いから見える報酬への転換
企業の本音は、退職金を単に削りたいというより、報酬を採用・定着・育成に効く形へ組み替えたいという点にあります。退職金は、長く勤めるほど厚くなる設計が一般的です。そのため、若手の採用競争に対しては効果が出にくく、中途採用者には同じ能力でも不利に働きやすい面があります。
厚生労働省の労働条件Q&Aは、退職手当を定める場合、適用される労働者の範囲や計算方法、支払時期などを就業規則に記載する必要があると説明しています。つまり退職金は、会社が制度として定めたときに具体的な労働条件になります。制度を変える場合も、働く側にとっては単なる福利厚生の変更ではなく、報酬体系そのものの変更です。
見直しの焦点は、退職時の一時金を減らして月例賃金に回すのか、企業型DCに移して運用を個人に委ねるのか、職務給に組み込んで現在の役割に対する報酬へ置き換えるのかです。ここを曖昧にしたまま「若手に還元する」と説明しても、中高年の納得は得にくいです。
中高年が反発する後払い賃金の重み
長期勤続ほど膨らむ退職所得控除
中高年の反発が強いのは、退職金が単なるボーナスではなく、長期の生活設計に組み込まれてきたからです。国税庁は退職所得について、原則として「収入金額から退職所得控除額を差し引き、その半分を所得金額とする」と説明しています。退職所得控除は勤続20年以下なら年40万円、20年を超えると800万円に年70万円を加える仕組みです。
この税制は、長く勤めた人ほど退職金を税制上有利に受け取りやすい構造です。国税庁の例では、勤続30年の退職所得控除額は1,500万円です。企業の退職金制度だけでなく、税制も長期勤続を前提に設計されてきました。中高年が「途中からルールを変えられた」と感じるのは、この積み上げ型の期待があるためです。
財務省の税制調査会資料は、退職金を「長期間にわたる勤務の対価の後払い」と「退職後の生活の原資」という性格を持つものとして整理しています。この性格を踏まえると、既に長く働いてきた層に対して、将来分だけでなく過去分まで実質的に削るような制度変更は、報酬の信頼性を損ないます。企業が改革を進めるなら、既発生分の保護、移行期間、代替給付の水準を明確に示す必要があります。
定年時に大きくなる給付額
厚生労働省の2023年調査では、勤続20年以上かつ45歳以上の定年退職者に対する平均退職給付額は、大学・大学院卒の管理・事務・技術職で1,896万円です。高校卒の管理・事務・技術職では1,682万円、高校卒の現業職でも1,183万円でした。これは住宅ローンの完済、老後資金、介護への備えなどと結びつく金額です。
制度形態によっても差があります。大学・大学院卒の定年退職者では、退職一時金制度のみが1,623万円、退職年金制度のみが1,801万円、両制度併用が2,261万円です。退職金制度は、単に「定年時にもらうお金」ではなく、企業年金や老後所得とつながる社会的な安全網の一部になっています。
一方で、自己都合退職の場合は同じ大学・大学院卒の管理・事務・技術職でも平均1,519万円です。定年退職と比べると差があります。長期勤続を前提にした制度では、途中で会社を移る人ほど、積み上げたはずの後払い賃金を十分に回収しにくくなります。ここに、転職者を冷遇する制度の古さがあります。
転職後賃金に残る年齢差
政府は、転職で賃金が上がる労働市場を目指しています。内閣官房の「新しい資本主義」実行計画2023改訂版は、転職後に賃金が増加する人の割合が、減少する人の割合を上回ることを目標に掲げました。実際、厚生労働省の2024年雇用動向調査では、転職入職者のうち前職より賃金が増えた割合は40.5%、減った割合は29.4%でした。
しかし年齢別に見ると、景色は変わります。2024年の50〜54歳では増加39.0%、減少28.2%とまだ増加が上回りますが、55〜59歳では増加27.4%、減少36.6%に逆転します。60〜64歳では増加13.6%、減少60.9%です。2025年上半期の調査でも、50〜54歳は増加26.5%、減少44.7%で、年齢が上がるほど転職時の賃金下落リスクが強まっています。
この状況で退職金を縮小すると、中高年は二重の不安を抱きます。会社に残れば制度変更で期待給付が減り、外に出れば転職後賃金が下がる可能性があるからです。若手にとっては流動化が機会に見えても、中高年にとっては選択肢の縮小に見える理由はここにあります。
転職者冷遇を残す制度改革の盲点
職務の見えにくさという壁
退職金を廃止し、月例賃金を上げるだけでは、転職者冷遇は解消しません。問題は、職務やスキルが外部から見えにくいまま、社内年次や過去の所属企業で処遇が決まりやすいことです。内閣府の2024年度経済財政白書は、採用時に職務内容について何らかの説明を受けた雇用者の割合が、日本では4割未満にとどまる一方、諸外国では8割以上だと指摘しています。
職務内容が曖昧なままでは、転職者は入社後に期待役割を交渉しにくく、企業も能力に見合う処遇を提示しにくくなります。結果として、経験豊富な中高年ほど「前職より低い等級から様子を見る」という扱いを受けやすくなります。退職金をなくしても、評価軸が年齢や社内滞留年数に寄ったままなら、制度の時代錯誤は残ります。
職務給やジョブ型人事を導入するなら、職務記述書、評価基準、昇給条件、学習支援をセットで整える必要があります。とくに中高年の転職では、過去の肩書よりも、現在どの職務でどの成果を出せるかを示せる仕組みが重要です。リスキリングも、研修を受けた事実ではなく、職務にどう接続されるかまで設計されなければ賃金上昇につながりません。
企業型DC移行に伴う自己責任化
退職一時金の代替として企業型DCを導入する企業もあります。企業にとっては将来債務を見通しやすくなり、働く側にとっては転職時に資産を持ち運びやすい利点があります。外部労働市場が広がる時代には、退職金のポータビリティを高める方向性自体は合理的です。
ただし、企業型DCは運用結果が個人に帰属します。制度移行時に月例賃金や掛金の水準が十分でなければ、単に会社の負担を個人の運用リスクへ移すだけになります。投資教育が形式的な資料配布にとどまる場合、金融知識の差が老後資産の差に広がる恐れもあります。
キャリア教育の視点では、退職金改革は「会社任せの老後資金」から「自分で管理する職業人生」への移行でもあります。そのため、企業は賃金制度だけでなく、資産形成、学び直し、職務経験の可視化を一体で支援する必要があります。働く側も、退職金の有無だけでなく、拠出額、手数料、商品ラインアップ、転職時の移換方法を確認することが欠かせません。
制度変更で広がる世代間摩擦
退職金改革で最も避けるべきなのは、若手への配分を理由に中高年の不利益を当然視することです。企業が若手採用のために賃金原資を動かす必要はありますが、それを「中高年の既得権削減」とだけ語れば、組織内の信頼は壊れます。長期勤続者は過去の賃金を低めに受け入れる代わりに、将来の退職給付を期待してきた面があるからです。
一方で、中高年側も退職金制度が永遠に続く前提でキャリアを固定することは難しくなっています。総務省の労働力調査では、2024年の転職者数は331万人、転職等希望者は1,000万人です。実際に動く人より、動きたいが動いていない人が多いことは、制度やスキル、年齢による不安が労働移動を抑えている可能性を示しています。
改革の焦点は、退職金を守るか廃止するかの二択ではありません。過去分をどう保護し、将来分をどの賃金項目に移し、転職者にも同じ基準で報いるかです。企業が「今後は職務で払う」と言うなら、中途入社者にも職務と成果に応じた昇給機会を開く必要があります。ここが伴わなければ、退職金廃止は流動化ではなく、単なる人件費の付け替えとして受け止められます。
制度変更前に確認したい報酬設計
働く側がまず確認すべきなのは、退職金制度の有無ではなく、総報酬のどこにお金が移るのかです。退職一時金を減らす代わりに基本給が上がるのか、賞与に回るのか、企業型DCの掛金になるのかで、生活設計への影響は大きく変わります。とくに賞与や業績連動給への移行は、安定収入を減らす可能性があります。
次に見るべきは、過去分の扱いです。既に積み上がった退職給付を凍結して保全するのか、ポイント制に換算するのか、移行時に一時金で清算するのかを確認する必要があります。中高年ほど、この移行設計が退職時の資金計画に直結します。制度説明で平均値だけが示される場合、自分の勤続年数、等級、退職時期で試算を求めることが重要です。
最後に、転職を考える人は、退職金の大きさよりも次の会社で職務と処遇が明示されているかを見てください。退職金が薄くても、職務範囲、評価基準、昇給条件、学習支援が透明であれば、キャリアの再設計はしやすくなります。退職金廃止の時代錯誤を乗り越える鍵は、後払い賃金を減らすことではなく、転職者を含むすべての働き手に、現在の貢献と将来の成長に応じた報酬を開くことです。
参考資料:
- 令和5年就労条件総合調査 退職給付(一時金・年金)制度
- 令和5年就労条件総合調査 退職給付(一時金・年金)の支給実態
- No.1420 退職金を受け取ったとき(退職所得)|国税庁
- 財務省 税制調査会資料 退職給付を巡る近年の状況
- 令和6年 雇用動向調査結果の概要 転職入職者の状況
- 令和7年上半期雇用動向調査 転職入職者の賃金変動状況
- 労働力調査(詳細集計)2024年平均結果の概要
- 新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画2023改訂版案
- 令和6年度 年次経済財政報告(全体版)
- 2026年春季労使交渉 大手企業業種別回答状況
- JILPT 2026春季生活闘争を中間総括
- 帝国データバンク 人手不足に対する企業の動向調査(2026年4月)
- 厚生労働省 就業規則で記載が必須な事項
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