看護学生を追い詰めるハラスメントの深層構造
看護学生を追い詰める実習と4割退学
「白衣の天使」という言葉に憧れて看護の道を志す若者は少なくありません。しかし、その入り口である看護学校や臨地実習の現場では、教員や指導者からの厳しい指導がハラスメントへと変質し、学生を心身ともに追い詰めるケースが後を絶ちません。
2022年には岐阜県の看護専門学校で実習中の学生が自ら命を絶つ事案が発生し、千葉県の看護学院では教員のパワーハラスメントにより1年生の約4割が退学に追い込まれる事態も明らかになりました。さらに、看護師として就職した後も、上司や患者からの暴力・ハラスメントが待ち受けています。日本看護協会の調査では、看護職員の約半数がこの1年間にハラスメント被害を経験したと回答しています。
本記事では、看護教育の現場から臨床に至るまで続くハラスメントの構造的な問題を整理し、今どのような支援や対策が進んでいるのかを解説します。
看護教育の現場で起きていること
臨地実習中の学生自死と第三者委員会の検証
2022年7月、岐阜県立下呂看護専門学校の2年生男子学生が、臨地実習の期間中に自ら命を絶ちました。SNSには「人格を全否定された」という趣旨の投稿が残されていたとされています。
岐阜県は第三者調査委員会を設置し、2023年10月に調査報告書を公表しました。報告書では、自死当日の教員による7件の指導・言動を個別に検討した結果、いずれも「必要かつ相当な範囲を超える指導・注意とは認められず、ハラスメントに該当しない」と結論づけました。しかし同時に、学校生活への不適応や学業不振、教員からの助言・注意が重なったことが背景にあると指摘しています。
この事案を受けて、亡くなった学生の父親は「全国看護学生はぐくみネット」を設立し、後にNPO法人化しました。24時間対応のLINE相談窓口を開設し、公認心理師や看護師、看護教員、弁護士ら17名のチームで看護学生の支援にあたっています。2026年2月時点で相談件数は300件を超え、そのうち約6割が教員や指導者からの不当な指導が疑われる内容だったとされています。
1年生の4割が退学した木更津看護学院の衝撃
千葉県木更津市の木更津看護学院では、教員によるパワーハラスメントが原因で1年生のおよそ4割が自主退学するという異常事態が起きました。週刊文春の取材により、教員が学生に対して「今年はどんなにバカでも、定員割れで全員受からせました。容赦なく落としますから」と入学直後のホームルームで宣言していたことや、シーツ交換の実技試験で微細なしわを理由に次々と不合格にしていた実態が報じられました。
当初、学校側は千葉県に対して「パワハラの事実はない」と説明していましたが、音声データの存在が明らかになり、第三者によるハラスメント調査委員会が設置される事態に発展しました。退学を余儀なくされた元学生に対しては一律10万円の補償金が提示されましたが、希望者は半数に満たなかったと報じられています。
閉鎖的な教育環境が生む構造的リスク
看護教育におけるハラスメント問題が繰り返される背景には、構造的な要因があります。医学書院の「医学界新聞」に掲載された蒔田覚氏の論考では、看護学校が本質的にハラスメントが発生しやすい環境であることが指摘されています。
国家資格の養成課程であるため、教員は長期間にわたって学生に厳しい指導と評価を行います。特に看護技術の実習では少人数での密接な関係が形成され、身体的な接触を伴う場面も多くなります。臨地実習の評価には画一的な正解が存在しにくく、学生からは「恣意的な評価」と受け止められることもあります。
さらに、医療倫理や看護倫理といった生命に関わる価値観の教育では、人生経験の浅い学生にとっては教員の価値観の「押し付け」に感じられることがあり、こうした構造がハラスメントの温床となっています。
就職後も続くハラスメントの連鎖
看護職員の約半数が被害を経験
ハラスメントの問題は、学生時代だけにとどまりません。日本看護協会の「2024年病院看護実態調査」によると、この1年間に就業先で暴力や暴言、ハラスメントを受けた経験がある看護職員は49.3%にのぼります。
加害者の内訳は「患者・利用者」が69.3%と最も多く、次いで「上司(看護職)」が43.0%、「医師」が31.7%となっています。つまり、看護師は患者からのカスタマーハラスメントと、職場内でのパワーハラスメントという二重の圧力にさらされているのです。
厚生労働省の調査でも、ハラスメント被害の内容別では「精神的な攻撃」が24.9%で最多、「身体的な攻撃」が17.9%、「人間関係からの切り離し」が14%と続いています。患者・家族からの被害を受けた看護職員の52.3%が離職を考えたと回答しており、ハラスメントが直接的な離職要因となっていることがわかります。
メンタルヘルス不調と離職の深刻な関係
ハラスメントと密接に関連するのが、看護職員のメンタルヘルス問題です。2024年度の調査では、病気による1カ月以上の連続休暇を取得した正規雇用看護職員がいた病院は72.6%にのぼり、そのうちメンタルヘルス不調者がいた病院は79.5%と約8割を占めています。
特に深刻なのは新卒看護師の状況です。新卒看護師の年度内離職理由として最も多いのは「健康上の理由(精神的疾患)」で、52.5%と過半数に達しています。正規雇用看護職員の離職率は11.0%、新卒採用看護職員は8.4%ですが、既卒採用看護職員では16.1%まで上昇します。
こうした離職の連鎖は、看護師不足をさらに深刻化させます。厚生労働省の推計では、2025年に必要とされる看護師数は約188万〜202万人であるのに対し、供給見込みは約175万〜182万人にとどまり、最大で約27万人の不足が見込まれています。ハラスメントによる離職が人手不足を招き、残された職員の負担が増加してさらなるハラスメントを生む――という悪循環が形成されています。
動き出した対策と支援の現在地
国と業界団体の取り組み
厚生労働省は、医療現場における暴力・ハラスメント対策として、対策学習用の教材を作成し公開しています。訪問看護師のセキュリティ確保に必要な防犯機器の整備については、地域医療介護総合確保基金による補助を活用できる仕組みも整備されました。
文部科学省は「教育実習等におけるハラスメントの防止及びその適切な対応等について」の通知を発出し、教育機関に対してハラスメント防止の体制整備を求めています。
日本看護協会は看護師等養成所におけるハラスメント対応事例を収集した報告書を2024年3月に公表し、具体的な対応の好事例を共有しています。同報告書では、ハラスメントの相談をしたことで不利益を受けないことの周知や、外部の相談窓口の設置が重要であると指摘しています。
民間支援と当事者の声
前述の「全国看護学生はぐくみネット」のように、当事者や遺族が立ち上げた支援組織の活動も広がっています。同団体は2024年1月には約2万7,000人分の署名を集め、看護学校でのパワーハラスメント根絶を求める要望書を政府に提出しました。
こうした民間の動きは、これまで「指導の一環」として見過ごされてきたハラスメントの実態を可視化し、社会的な議論を喚起する役割を果たしています。
厳しい指導の線引きと看護人材育成
「厳しい指導」と「ハラスメント」の線引き
看護教育において難しいのは、患者の命を預かる専門職を育てるための「必要な厳しさ」と「ハラスメント」の境界線です。下呂看護専門学校の第三者委員会が教員の指導を「必要かつ相当な範囲」と判断したように、教育上の厳しさが一律にハラスメントとされるわけではありません。
しかし、密室化しやすい実習環境で、評価権限を持つ教員が学生の人格を否定するような言動をとる場合、それは教育の名を借りた暴力にほかなりません。重要なのは、相談しやすい環境の整備と、外部の目が入る仕組みの構築です。
看護人材の持続可能な育成に向けて
看護師不足が深刻化するなかで、ハラスメントによる離職や進路変更は社会全体の損失です。今後は、養成課程におけるハラスメント防止ガイドラインの実効性を高めるとともに、就職後のメンタルヘルス支援の充実が求められます。2025年度には看護教育ポータルサイト「発見・看護!」にハラスメント対応動画が掲載されるなど、啓発活動も進みつつあります。
教育・臨床に根を張る三重の圧力
看護学生から現場の看護師に至るまで、ハラスメントは教育現場・臨床現場の両方に深く根を張った構造的問題です。教員からの過剰指導、先輩看護師からのパワーハラスメント、患者からのカスタマーハラスメントと、逃げ場のない三重の圧力が看護職を志す人々を追い詰めています。
国や業界団体による制度整備は進み始めていますが、現場レベルでの意識改革はまだ道半ばです。看護という職業の持続可能性を守るためには、「厳しい指導」という名目の下で見過ごされてきたハラスメントの実態を直視し、相談窓口の整備や第三者による監視体制の導入など、具体的な対策を加速させる必要があります。看護を志す一人ひとりが安心して学び、働ける環境の実現は、医療の質を守ることにもつながるのです。
参考資料:
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